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父ブッシュ以来30年の回り道。「ポスト冷戦時代」が始まらない訳

トランプ大統領が進める「自国第一主義」により、国際社会は嵐の中でコンパスを失った船のように、迷走しているように見えます。メルマガ『高野孟のTHE JOURNAL』の著者でジャーナリストの高野孟さんは、このようになってしまった原因の一つに、「東側」が消滅しているにもかかわらず、「西側」という概念に縛られた捉え方があるとし、歴代の指導者やメディア、世界で注目される哲学者までもその落とし穴にハマっていると指摘します。

米国が「西側」を抜けてしまった?――それで世界はどうしたらいいか分からなくなっている

マルクス・ガブリエルは、ボン大学教授という正式の肩書きよりも「哲学界のロックスター」という綽名の方が似合うドイツの若き哲学者で、彼の著書『なぜ世界は存在しないのかは各国語に訳されて哲学書としては異例の世界的ベストセラーとなった。そのガブリエルが10月6日付「読売新聞」でほぼ1ページを割いたインタビューに応じていて、そこで「米国が『西側』から抜けてしまった」と言っているのが面白い。

「ここで言う『西側』は、性や人種や国などの違いを超えて、人は皆、同じ基本的人権を持つとする、普遍的価値体系を共有する空間です。日本やオーストラリアも一員です」(10月6日付 読売新聞)

普遍的価値体系を最初に国造りの基礎に掲げたのが18世紀後半のフランス革命で、それを哲学として体系づけたのがカントからヘーゲルに至るドイツ観念論。ナチスを葬った後、1949年の西独基本法が第1条で「人間の尊厳は侵すことができない」と謳ったのは、まさにそのドイツ本来の普遍的価値体系への復帰宣言にほかならなかった。

とはいえ、その価値体系を体現し戦後の世界秩序を主導し作り上げたのはドイツではなく米国で、そこではナチスの再来としての共産主義が普遍的価値体系を真っ向から否定するものとして敵視され、旧ソ連を盟主とする「東側」と米国を盟主とする「西側」が世界を二分した。

で、「冷戦が終わった」とはどういうことかと言うと、最も月並みな捉え方は、「西側が勝って東側が負け、東側が西側の“普遍的価値体系”に屈服してくる羽目になった」というもので、当時のブッシュ父大統領はまさにそのような認識を抱き、無敵の「唯一超大国」の時代が来たと嘯いた。

私はそれを批判し、冷戦の終わりには勝ちも負けもなく、武力で優位を占めたものが相手を屈服させられるという力任せの国際関係原理それ自体が成り立たなくなるのであって、その意味では旧ソ連だけではなく米国もまた敗者であることを自覚しなければならないと論じた。

ところが米国は、「西側」がまだ存在しているどころか、それが今や全世界を覆うようになり、その盟主が自分だという幻覚に長く浸ってきた。トランプはその「西側」から抜けた。ガブリエルは言う。

「『米国第一』を掲げるトランプ米大統領は普遍的価値体系を攻撃し国家を超える国際的な枠組みを嫌い、『西側』を否定します。先の国連総会の演説でも『未来はグローバル派ではなく、愛国者のものだ』と強調しました。……米国抜きの『西側』は勢力としては傍流になり、中国やロシアを代表とする『非自由主義』陣営が本流になりかねない」(10月6日付 読売新聞)

 では、トランプの米国は「西側」を抜けるべきでなく、引き続き普遍的価値体系の盟主として振る舞うべきだというのだろうか。ここは彼の議論は未成熟だと思う。

ポスト冷戦時代への回り道

トランプが「西側」を否定したのは正しい。落ちついて考えれば誰でも分かることだが、「東側」が存在しないのに「西側」だけが存続することはありえない。今なお「西側」というものがあって、米国が引き続きその盟主だと思うのは、20世紀へのノスタルジアに寄りかかった幻覚にすぎないのだから、そこから抜け出そうとするのは結構なことである。

とはいえ、単に「西側」を抜けて「米国第一」で国益確保に専念するというのでは、世界にとってはもちろん、米国にとっても何の解決にもならない。米国がなすべきことは、「西側」を勝手に抜けることではなく、それを責任をもってキチンと終わらせて、ポスト冷戦ということはポスト覇権の多極化世界に適合した新しい国際関係原理に道を開くことである。

ゴルバチョフは責任をもって「東側」を終わらせたが、ブッシュ父は大いなる勘違いをして「西側」を終わらせなかった。そのためポスト冷戦時代を迎えるのに世界は30年以上も遠回りしなけれならなかったのだが、トランプのやり方ではまだその遠回りは続くことになろう。

英王立国際問題研究所のジム・オニール会長は、米中対立激化に突き進む米国に対して、次のようにアドバイスしている。

米国は、別の国の経済規模が米国を上回る勢いになったとしても、米国の富にとって脅威にならないことを理解する必要がある。むしろ米国をより豊かにする一助になることを受け入れるべきだというのが私の考えだ。   人口が10億を超える国はいずれ……米国のような人口が3億人強の国の経済規模を上回るだろう。同じように遠い将来、やはり人口10億人以上のインド経済が、米国の規模をしのぐと予想することも不合理ではない。   米国の知識人や政治指導者は、世界最大の経済という自負を捨てて先に進む必要がある。世界最大の経済規模であること自体は、何の意味も持たないだろう。米国の政策決定者は最大でなくなることを恐れるあまり、他国の経済が米国より大きくなることを阻止するためだけに、手段を選ばず行動する可能性がある……。(10月12日付 日本経済新聞)

ブッシュ父のように「唯一超大国」と思い込むのも、トランプのように中国を叩けば自国が蘇るかに夢見るのも、「自分が一番でいたい」がための足掻きであるという意味では同次元ということである。そこに思い至らない限り米国の先行きはない

日本も「米国第一」をやめないと

日本もまた、米国が何でも一番だった20世紀へのノスタルジアの中で生きている。上述のジム・オニールの論説を紹介した日経は、ご丁寧にも藤井彰夫編集委員による「米中対立は『体制間競争』」と題した解説を付し、次のようにクギを刺している。

「米国が恐れるのは、中国に経済規模で抜かれることだけではない。民主主義国家ではない共産党一党支配の中国が、軍事力、技術力でも米国の優位を脅かす『体制間競争』だからだ。日米摩擦の際も米国で『日本異質論』はあったが、あくまで同じ民主主義国家であり同盟国の仲間内の競争にすぎなかった。米中の対立はもっと根深く深刻だ」(10月12日付 日本経済新聞)

日経の世界観でも、まだ世界は「西側」と「東側」に分かれていて両者の間には「体制間競争」とやらがあるらしい。ガブリエルにとっては自由と平等など「普遍的価値体系」を持つ国と「非自由主義」の国、日経にとっては「同じ民主主義国」と「民主主義国家ではない共産党一党支配」の国というわけだが、この物差しで測ると依然として世界は2つに分かれているというのは本当なのか。そこから考え始めないと、いつまで経っても「ポスト冷戦」時代は始まらない

image by: Hadrian / Shutterstock.com 

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早稲田大学文学部卒。通信社、広告会社勤務の後、1975年からフリー・ジャーナリストに。現在は半農半ジャーナリストとしてとして活動中。メルマガを読めば日本の置かれている立場が一目瞭然、今なすべきことが見えてくる。

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