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部下の裁量権や時間を邪魔する上司が「パワハラ認定」される日

今や「パワハラ」の言葉をニュースで見ない日は無いくらい、日本企業とパワハラの関係は根深い問題として認知されています。殴る蹴るなどの暴力だけがパワハラと考える人もいるようですが、メルマガ『冷泉彰彦のプリンストン通信』の著者で教育者でもある冷泉彰彦さんによると、パワハラに発展しがちな昭和型思考には3つのパターンがあり、令和の現代においても誰もがいずれかのパターンに該当しうる、と警鐘を鳴らしています。

パワハラ問題、3つのケースに分けて乗り越えよ

ネットの報道などでパワハラの四文字を見ない日はない。それくらい現代の日本ではパワハラの問題が話題になっています。本当は昭和の終わりとともに根絶しておけば、日本社会もずいぶんと明るくなったと思われ「30年遅い!」というのが正直なところですが、とにかく問題視されているのは良いことです。

とは言っても、議論の中身はまだまだスローで「パワハラと指導の境界が分からない」とか「叱責も許されないのか」といったレベルで「グルグル回っている」状態というのは残念です。ここでは、そうした「グルグル」を根絶して、前へ進むために問題を3つに分けて考えてみたいと思います。

1つ目の問題は「叱責」です。
昭和的な発想では、部下がミスをしたら叱責するのは当たり前だとか、その際に理詰めで追及すると部下を潰すが、感情をストレートにぶつければ「お互いスッキリして、後腐れがない」などという考え方があります。その他にも色々な言い方があります。人命がかかっているミスの重大性に気づかせるには叱責は当たり前だとか、叱責されて部下が真剣になればお互いに結果オーライとか、とにかく昭和の上司は叱責が大好きでした。こうした認識は全部ウソです。叱責に良いことは1つもありません。言葉の暴力であり、犯罪です

と言いますか、ビジネスの現場で叱責が行われているのは、先進産業社会では日本と韓国だけだと思います。他では叱責というのはまずありません。軍隊ではあっても、民間ではまずあり得ないのです。ですから、あらゆる叱責はパワハラであり、一切認めてはなりません。

部下がミスした場合に管理者がすべきことは、対応策を指示すること、ミスへの対応を支援すること、これが第一です。次いで、ミスを起こした原因を特定し、情報の誤りなどがあれば訂正し、人事配置が誤りであれば配置を変更する。それだけです。

勿論、情報を訂正して再発が防げるのなら、ミスを起こした人材に同じポジションで「セカンドチャンス」を与えるべきです。その方が新しい人材を引っ張ってくるより効率的だからです。ですが、人材に起因したものであれば配置を変更するのは当然です。

それ以前に、ミスの発生は対策を必要とします。ですから対策を指示し、場合によっては対策を支援することでダメージを最小限にするのは、管理者の責任です。その初動に失敗してダメージを広げるようでは、今度はその管理者の配置が誤っていたということになります。

その際に、ミスを起こした当事者を叱責することは何のメリットもありません。管理者でよく「給料泥棒」とかいう言い方で叱責をする人がいますが、仮にミスによって金銭的なダメージが発生していたら、そのリカバリーを指示し支援するのが管理者として必要なことです。

それをしないで個人的なフラストレーションのはけ口として叱責を行い、権力の消費をしているというのは、管理者の人格に問題があることを示しています。給料泥棒は本当です。叱責が行われている間に業務は遅滞し、その管理者の高額な給料は何も生まずに浪費されているのですから。

とにかく「叱責と指導の線引きはどうする?」などという疑問そのものがナンセンスなのです。叱責は全てダメだからです。

OJTも実はパワハラ?

2つ目は「指導」です。
では「指導」は良いのかというと、実はこれも深刻な問題を含んでいます。昭和的な日本の職場では何の疑問も感じていないかもしれませんが、OJTというものがあります。「オン・ザ・ジョブ・トレーニング」の略語ですが(アメリカではほとんど死語だと思いますが)、実際の仕事をさせながらトレーニングするというのは、日本ではまだまだ行われています。

そのOJTでは、上司、あるいは指導役は部下にタスクの命令をして、そのタスクを担当させながら、そのタスク遂行に必要な知識を教えていきます。ですが、そのように業務知識の指導者が同時に業務の命令者であるというのは、実はダメなのです。

昭和の日本的な発想からすると、リアルな責任を持たせながらどんどん足りない知識を入れていけば習得も早いので良いじゃないか、となるわけです。また、部下が頑張れば部下は伸びるし、部門全体としては成果も出るし、良い事ばかり、そんな風に思いがちです。ですが、そこに落とし穴があるのです。

OJTでは、部下の人格は否定されています。原則としてそうです。どうしてかというと、部下にはまず「タスク」が振られます。でも、OJT中の部下はその時点ではタスクを遂行するだけのスキルと知識がありません。ですから、上司または先輩がそのスキルと知識を入れていくのです。

その場合の部下は、2重に人格を否定されます。まず、時間を拘束されて命令を受け、その命令を遂行する義務(苦役)を負わされます。勿論、この苦役は給料と相殺されてチャラになるので、労働契約によっていいことになっていますし、部下としても労働契約にサインしているので拒否できません。

問題は、にも関わらずスタート時点ではタスクを遂行できる力がないということです。ですから、「足りない状態」だとして上司や先輩に教えを請うことになります。その場合に、タスクは振られているので既に人質は取られています。しかし、自分だけではできないので教えてもらわねばなりません。

そこに完全な非対称性、不平等性が発生します。上司や先輩は、タスクの命令者として優越するだけでなく、自分が教えないとタスクが完了できないということで、義務付けたタスクを人質に「スキル習得を強要」しているのです。

更に言えば、スタート時点では「タスクを完了できないスキルのレベル」であるにも関わらず、会社としては給料の支払い義務があり、それ以上に「スキルのない」人材にタスク遂行を期待して給料の約束をしているのは、その人材に一種の債務を負わせているような形にもなります。

この構造は、実は全体が非対称であり、人格の否定であり、パワハラそのものです。そうした非対称性を緩和するためには、新しい人材がスキルを持ち、スキルを評価されて、つまり本物の即戦力として入る、つまりOJTというのは止めなくてはなりません。

百歩譲って、そのスキルをキチンと教えるノウハウが大学などの開かれた教育機関にはなく、また体系立って先に教える指導法の開発もサボっているということで、OJTしかノウハウの継承方法はないということだとしましょう。仮にそうであっても、OJTという構造そのものが、実は本質的には人格否定でありパワハラの温床になるという「自覚」は必要です。

もっと言えば、職場における「指導」というのは全て人格否定とパワハラの温床になるのです。そうした自覚に基づいた「自制」が指導する側には求められると思います。

「裁量」という言葉に潜む本質

3つ目は「裁量」です。
頭脳労働というのは単純な手作業ではありません。あるまとまったタスクがあり、そのタスクを期限までに遂行するにあたって、一人一人の頭脳労働者はそれこそ頭脳を使い、足を使って調べたり、コミュニケーションによって情報を取ったり、様々な作業を組み合わせてタスク遂行のための情報やリソースを集めて実行するのです。

その責任ある複雑な作業を自分の裁量で行うところにその人材の達成感があり、また自分の裁量で行うことでスキルを認められた、というポジティブな感覚に至るのです。頭脳労働というのはそのようなものです。

一見すると、頭脳労働ではなく実際にモノを加工するなどの実務であっても、多くの仕事は頭を使って複雑な部分タスクを組み合わせて一つの成果物を作り上げるものです。その意味で、あらゆる仕事はクリエイティブだと言えるでしょう。

問題は、そこに横やりが入るということです。折角自分で考えて計画通りのタスク遂行に入っているのに、組織の中では「途中でのホウレンソウがない」とか、あるいは無能な上司が「大丈夫かな、俺その辺の技術の件分からないので教えてよ」などと妨害する、あるいは「悪いけど別のプロジェクトが行き詰まっているんで助けてくれないか」とか、最悪の場合は「俺は役員報告あるんだけど、自信ないんで明日の東京での役員会に同席してくれないか」などと、人の時間を奪うような場合もあります。

とにかく、専門性のある頭脳労働では、その日その日の仕事いうのは自分の裁量で進めるわけで、そこに「裁量権を妨害する」ような形で上司や同僚が介入するというのは、人格否定になると思います。

実は、昭和型の会社では職場というのは「そういうもの」だとみんなが麻痺していて、上から降ってきた「裁量権の侵害」については、顔色一つ変えずに対応することになっていました。ですが、現代は全く違う時代です。個々人の専門スキルを深めないとグローバルな競争では負けるし、そもそもデフレ社会の中で企業内のリソースもギリギリでやっているわけです。

そのような環境では、とにかく「上司は部下に対して絶対」だというような勘違いから部下の「裁量」に介入したり、裁量権を奪ったりするのは重大な人格否定になるということを警戒すべきと思います。

いずれにしても、「どこまでがパワハラか?」というような「のんきな疑問」を抱いているようでは、既にその会社や組織は終わっています。

叱責は問題外、指導は要注意、裁量権も要警戒というのを基本として、部下の人格を100%認める会社だけが勝ち残っていくし、それができない会社や管理職は淘汰されていくだけだと思います。

image by:Shutterstock

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東京都生まれ。東京大学文学部卒業、コロンビア大学大学院卒。1993年より米国在住。メールマガジンJMM(村上龍編集長)に「FROM911、USAレポート」を寄稿。米国と日本を行き来する冷泉さんだからこその鋭い記事が人気のメルマガは第1~第4火曜日配信。

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