なぜ、こんな話をしたかというと、コトバの意味やインプリケーションは文脈と状況依存的で、敬語を使わなかったからと言って、相手を軽視しているとは限らないと言いたかったからだ。最近の私の学生諸君は、私のことを先生と呼ぶことが多いけれど、時々、『池田さん』と呼ぶ学生がいて、懐かしい気がする。こういう学生は外国の高校を卒業した子に多いが、それはともかくとして、私の大学時代には少なくとも私の属していた理学部では師を先生と呼ぶ習慣はなかった。
私の大学時代の恩師は三島次郎先生で、大学院の恩師は北沢右三先生だが、学生の時は「先生」と呼ぶことはコンパ代金の無心の時くらいで、普段は「さん」付けで呼んでいた。だからと言ってもちろん尊敬していないわけではなかった。北沢先生はすでにお亡くなりになって、稀に墓参りに行くくらいだが、三島先生は90歳を過ぎてまだ矍鑠とされていて、時々お会いする時は『三島先生』と呼びかけることが普通になった。
構造主義生物学の師匠の柴谷篤弘先生は、お会いして暫くの間、『先生』と呼びかけると『私は貴方の先生ではありません』とおっしゃっていたが、そのうち『先生』と呼びかけても咎められなくなった。私はちょっと嬉しかったが、ほとんどは『柴谷さん』と呼んでいた。
柴谷先生は最後まで、私に面と向かっては『池田さん』と呼びかけてくださったが、柴谷先生と親しい編集者が『この間柴谷先生にお会いしたら、ちょっと前に池田君と飯食いながら議論をして楽しかった、とおっしゃってました』と話したので、柴谷先生が私のことを池田君と呼んでくれたのだと分かって、私は相当嬉しかった。まあ、普通の人は何でそんなことが嬉しいのか分かんねえだろうけどね。(メルマガより一部抜粋)
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