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山本太郎氏を呼び捨てにし「敬称ポリス」に捕まった池田教授の話

日本語には多くの敬語や敬称があり、どう使うか選択に迷うことが多くあります。それが面倒になってくると、誰に対してもどんなときも「さん」付けや「ですます」にしておけば無難で、それをマナーだと考える人もいるようです。フジテレビ系「ホンマでっか!?TV」でおなじみの池田教授は、都知事選に立候補した山本太郎氏を呼び捨てにして、指摘を受けたとのこと。今回のメルマガ『池田清彦のやせ我慢日記』では、呼び捨てだからといって相手を軽視しているとは限らないと主張。敬称や敬語が文脈や状況に依存することについて綴っています。

敬称の文脈依存性について

都知事選に立候補していた山本太郎を応援すべく、ツイッターに檄文を投稿したら、「太郎、太郎、と呼び捨てにしてお前はどんだけ偉いんだ。わきまえろ。太郎さんだろ。どんな教育をされてきたんだよ」というリプライが来て、笑ってしまった。「歴史に残る人は呼び捨てでいいんだよ。夏目漱石さんとか森鴎外さんとか言わねえだろ」と返したらそれ以上何も言ってこなかった。「歴史に名を残そうが残すまいが、誰に対しても呼び捨てだろうが、敬称を付けようが、好きにしていいんだよ」とさらに返そうと思ったけれど、そう書くと絡んでくる奴がいっぱいいそうで、面倒くさかったので、思いとどまった。

コメントの中で一番秀逸だったのは「最近は敬語マナーポリスがはびこっていて嫌ですね」というものだった。世の中にはよく分かっている人もいる。少し前までのマスコミは犯罪の容疑者の名前は呼び捨てだった。批判が多かったせいか今は〇〇容疑者と呼ぶようになった。有罪と決まったわけではないのに、なぜ〇〇さんじゃいけないんだろうね。「敬語マナーポリス」はこの件についてなにも言わないのかしら。

昔どこかに書いたことがあるが、25年以上前、シドニーのオーストラリア博物館で客員研究員をしていた頃、僕より10歳近く若い、Shane・McEveryというショウジョウバエの研究者が、自分よりずっと先輩の、双翅目分類の世界的権威であるDavid・McAlpineを『David! David!』と大声で呼び捨てにして探していたのを見たことがある。オーストラリアでは私的に使用する敬称という習慣がないので、上司でも部下でも同僚でもすべて呼び捨てである。ちなみに私は「キーヨ」と呼ばれていて、昆虫セクションで働いている人は大先生のMcAlpineからアルバイトのお姉さんまで、皆、私のことを「キーヨ」と呼んでいた。日本語で車の鍵を指して『これは車のキーよ』というときの発音と同じであった。

私的な敬称がない代わりに、オーストラリア社会は公的な肩書にはひどくこだわっていた。借りていたフラット(アパートをオーストラリアではflatと呼ぶ)に届く電気料金の請求書の宛先はDr.K.Ikedaであった。あるいは、オーストラリア博物館の研究者には、ニュー・サウス・ウエールズ州の国立公園で、自分の研究対象の分類群を自由に採集できるライセンスが発行されるのだが、十数人の昆虫セクションの研究者のトップにProf.K.Ikedaと載っていた。オーストラリア(イギリスやドイツでも同じ)ではProf.はDr.より格上の称号のようで、昆虫セクションの研究者の大半はDoctorでProfessorは私しかいなかったので、公文書にはそう載っていたのであろう。

日本はオーストラリアと対照的に、自分の家の表札にDr.〇〇などと掲げている人は皆無である反面、私的な会話では敬称を付けるか付けないか、付けるとしたら、さん、君、のどちらにするか、はたまた、先生、社長、教授にしようか結構迷うことも多い。そこで、文脈を無視してすべて敬称を付けるべきとの考えが正しいと思うと、先に記した「敬語マナーポリス」みたいな人が現れることになる。

どの敬称を選ぶか考えるのが面倒なので、あるいはすべての個人は平等なので、すべて「さん」で呼ぶという人もいて、それはそれで合理的で文句を言う筋合いはないのだけれど、例えば、私が学生や元学生や親しい友人たちを、「さん」付けするか「君」付けするか、呼び捨てにするかは、私と相手との親密度や信頼度によって変わってくるわけで、うまく使い分けることによって、コミュニケーションがスムーズに進むこともあるし、私はあなたが思っているほど、貴方のことを考えているわけではありませんよ、ということをインプリシットに表現することもできるので、私的にはこちらの方が素敵だと思う。

早稲田大学に勤めていた時、ゼミに入ってきた学生諸君を私はすべて「君」付けで呼んでいた。大学に入学したての女子学生の中には「君」でなくて「さん」ですと不可解な顔をする子もいたけれど、このゼミは男女平等なので、すべて「君」と呼びます、と説明するとびっくりしながらも大方は納得してくれたみたいである。高校までは女子は「さん」と呼ばれるのが当たり前になっていたので、びっくりするのは無理もないけれどね。

そう書くと、「それは貴方(私)が権力者だからイヤイヤ納得するふりをしたんだよ」と知ったようなことを言う人がいるのは承知しているが、対面で話していれば、相手が納得したか不服に思っているかは大体わかる。ヒトは表情筋が発達していているので、納得していない場合は『分かりました』と口では言っても、顔には『ザケンじゃねえよ』と書いてあるからである。それはともかく、女子学生でも「君」付けで呼ばれることに馴れてしまえば、違和感はなくなってくるのが普通だろう。

ゼミを始めて暫く経ってくると、何となく相性が合う学生と、親密度の距離がなかなか縮まらない学生が出てくる。前者の学生たちの中で特に信頼する学生は、授業以外の時は呼び捨てにすることが多くなり、後者の学生たちはいつでも「君」付けで呼ぶことになる。私との信頼度という基準に照らせば、池田ゼミ内でのヒエラルキーが上位の学生は、私に呼び捨てで呼ばれる学生であり、私に「君」付けで呼ばれる学生はヒエラルキー下位の学生ということになる。こう書くと、私がえこ贔屓をしているのじゃないかと思われる人がいると思うが、ゼミの中で最も優秀で評点が高い学生は、大方「君」付けで呼ばれる学生なのだ。

なぜ、こんな話をしたかというと、コトバの意味やインプリケーションは文脈と状況依存的で、敬語を使わなかったからと言って、相手を軽視しているとは限らないと言いたかったからだ。最近の私の学生諸君は、私のことを先生と呼ぶことが多いけれど、時々、『池田さん』と呼ぶ学生がいて、懐かしい気がする。こういう学生は外国の高校を卒業した子に多いが、それはともかくとして、私の大学時代には少なくとも私の属していた理学部では師を先生と呼ぶ習慣はなかった。

私の大学時代の恩師は三島次郎先生で、大学院の恩師は北沢右三先生だが、学生の時は「先生」と呼ぶことはコンパ代金の無心の時くらいで、普段は「さん」付けで呼んでいた。だからと言ってもちろん尊敬していないわけではなかった。北沢先生はすでにお亡くなりになって、稀に墓参りに行くくらいだが、三島先生は90歳を過ぎてまだ矍鑠とされていて、時々お会いする時は『三島先生』と呼びかけることが普通になった。

構造主義生物学の師匠の柴谷篤弘先生は、お会いして暫くの間、『先生』と呼びかけると『私は貴方の先生ではありません』とおっしゃっていたが、そのうち『先生』と呼びかけても咎められなくなった。私はちょっと嬉しかったが、ほとんどは『柴谷さん』と呼んでいた。

柴谷先生は最後まで、私に面と向かっては『池田さん』と呼びかけてくださったが、柴谷先生と親しい編集者が『この間柴谷先生にお会いしたら、ちょっと前に池田君と飯食いながら議論をして楽しかった、とおっしゃってました』と話したので、柴谷先生が私のことを池田君と呼んでくれたのだと分かって、私は相当嬉しかった。まあ、普通の人は何でそんなことが嬉しいのか分かんねえだろうけどね。(メルマガより一部抜粋)

image by:In Green / Shutterstock.com

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