我々の意思疎通のツールとして欠かせない言葉ですが、その言葉が持つ定義を一歩間違えると、途端に何も通じなくなります。例えば、世界一大きな魚とされているジンベイザメと、かわいくて小さなメダカも、何も違和感もなく「魚」というひとつの言葉で括られています。なぜこの大きさも形も違う2種が同じ言葉の中に納まっているのかと疑問に思おうとすれば、キリがないわけです。そんな言葉について論理的に解説してくれるのが、CX系「ホンマでっか!?TV」でもお馴染みの池田教授。自身のメルマガ『池田清彦のやせ我慢日記』の中で、さまざまな角度から言葉についてアプローチしています。
自然言語は定義できない(概念は実在しない)
前回、敬称は文脈依存的だという話をしたが(山本太郎氏を呼び捨てにし「敬称ポリス」に捕まった池田教授の話)、「コトバ」というのはそもそも曖昧で、多かれ少なかれ、その意味は文脈依存的なのだ。本当は賢くないのに賢いふりをしたがる人は、よく、「コトバ」の定義をしてから議論をしようと言うけれども、自然言語は定義できないということが分かっていない。
「自然言語の定義は定義できないことだ」などと発言すると、「定義するやつもバカ、定義できないやつもバカ」といったキッチュな発言をする人がいるが、こういう人はまず、間違いなくおバカである。「バカというやつが一番バカ」と言って得意満面な人も、例外なくおバカである。
まあ、そういう話はどうでもいいのだけれど、「コトバ」はいずれにせよ、連続的な事象を切り取って何らかの同一性で括るのだから、切断線は多少とも恣意的にならざるを得ず、厳密な定義は不可能になる。
例えば、イヌを例にとって考えてみよう。チワワからセントバーナードまで、大きさも姿かたちも違う動物を、我々はなぜイヌと呼ぶのだろう。プラトン的に言えば、イヌという生物(もっと一般的に言えば、イヌと呼ばれるもの)は「イヌ」という同一性を孕むゆえにイヌと呼ばれるのだということになる。プラトンはこの同一性をイデアと呼んだが、それでは、イヌのイデアを取り出して見せてくれと言われれば、プラトンでなくともお手上げになる。
プラトンは仕方なく、イデアは大きさを持たず、ただ同一性を持つだけだと述べたが、そのような存在は現代物理学が解明した素粒子だけで、イヌをイヌたらしめている素粒子などはもちろんない。尤も、超弦理論では素粒子も有限の大きさを持つひもの振動状態だとされているので、点(大きさを待たないで位置だけを持つ)だけの存在はこの世にはないのかもしれない。
多少生物学をかじった人ならイヌのゲノム(DNAの総体)を有するものがイヌだと言うかもしれない。これはなかなか微妙である。生物は進化するので、ゲノムの組成は時間とともに変わっていく。イヌは昔はイヌでなかったろうから、イヌでないものが徐々に進化してイヌになったのだとしたら、どこからイヌになったのだろう。進化という観点から見ると「イヌ」と「イヌでないもの」の間に、明確な切断線を引くのは不可能である。
現在生きて動いているイヌに関しても、クローンでない限りすべてのイヌのDNA組成は異なる。その中からイヌをイヌたらしめているDNA断片を探し出し、これを有するのが「イヌ」だと特定するのも不可能だと思う。
そもそもイヌをイヌたらしめているDNA断片などは恐らくない。最近の定説ではオオカミとイヌは同種とされているが、かつては別種とされていた。同種か別種かを決める超越論的な根拠はない。広く受け入れられている種概念によれば、 AとBが交配可能で生まれた子に生殖能力があれば、AとBは同種ということになるが、イヌはオオカミばかりでなく、リカオン、ジャッカル、コヨーテなどとも交配可能で雑種は生殖能力を持つので、これらは皆同種ということになる。しかし、オオカミはともかく、リカオンやジャッカルをイヌだと思う人はいない。
イヌをイヌと呼ぶのは、我々の脳の中にイヌのイメージがあって、それに合致したものをイヌと呼んでいるに過ぎないのである。普通の人にとって、オオカミのイメージとイヌのイメージは違うので、オオカミはオオカミ、イヌはイヌなのである。