なぜ大きさも形も違う動物を我々は一括りに「イヌ」と呼ぶのか?

 

もし社会全体がオオカミとイヌを区別していなければ、この社会で育った人はどちらも同じ名で呼ぶであろう。「イヌ」と「オオカミ」の間に切断線を引くかどうかは恣意的に決まるのである。しかし一度決まった切断線は人々のイメージを固定して、「イヌ」と「オオカミ」という異なる2つの概念があたかも実在するかのように錯覚させるのである。

イヌのように外部世界に指示対象を持つ言葉は、厳密な定義はできなくとも、話している人同士で、コトバの意味に齟齬が生じることはない。ソシュール的に言えば、「イヌ」「dog」「犬」という表記やこれを喋った時の音声は「シニフィアン」と呼ばれ、これが指し示す現象は「シニフィエ」とよばれるが、端的に言えば意味とは「シニフィエ」のことだ。

「イヌ」とか「ネコ」とかいったコトバの意味が齟齬をきたさないのは、シニフィエを直示することができ、お互いに目で見て確かめることができるからだ。みんなが「イヌ」と呼んでいる動物を「ネコ」と呼ぶ人は、あっちの世界に送られてしまう。

それに対して、脳の中の想念が指示対象であるコトバの場合、コトバの意味は人によって微妙に異なるので、話がかみ合わないことが多々起こり、コトバの同一性は恣意的にしか決まらないことを理解していない人は、「定義してからコトバを使え」と怒り出すことになる。

「平和は何より大切だ」という人と「平和より大切なものがある」という二人が論争しても、この二人が使う「平和」は異なる意味を持っているので、そのことが分からない限り、埒が明かないのだ。

ところで、「平和」という概念は人々の脳の中にしかない想念で、実在するものではないということを理解している人でも、自然現象に付けられた名称は実在すると思っている人は多い。しかし、先に述べたように「イヌ」や「ネコ」といった自然種名でも、同一性の定まった不変のものではなく、実在しない概念なのである。

実在するのは個物としての、その時々の個々のイヌだけである。これは現象であり、現象はいつでも実在するのだ。但し、個物に名前を付けると、この名で呼ばれるものが実在するかどうかというややこしい問題が発生する。 結論を言えば、”実在しない”。固有名を付けた途端に、固有名で指示されるものは不変でも普遍でもなくなるからである。

唯一、実在するかのように見えるのは、物質名である。例えば、H2Oは不変で普遍の同一性を孕み、すべての個物のH2Oは、とりあえず同一とみなして差し支えないと考えられる(厳密に言えば、多少問題があるのだけれど、ここではこれ以上議論しない。興味がある人は『生物にとって時間とは何か』(角川ソフィア文庫)を読んでください)。

新型コロナウイルスが猛威を振るっているが、このウイルスの感染によって引き起こされるCOVID-19という感染症は果たして実在するのだろうか。岩田健太郎は『感染症は実在しない』(北大路書房)と題する本を書いたが、もちろん個々の患者や症状は実在するけれども、COVID-19という名で指示される病気は実在しないのである。新型コロナウイルスに感染しても全く症状が出ず(不顕性で)、健康な人もいる。そうかと言えば、重症化してサイトカインストームを起こし死亡する人もいる。はたしてこの2つは同一のカテゴリーで括れるのだろうか。

前に書いたように、チフスのメアリーはチフス菌の保菌者であったが、全くの健康体であった。チフスのメアリーはチフスなのか、そうでないのか。細菌やウイルスに感染しても不顕性の人と、軽症の人と、重症化する人は何が違うのだろうか。単にウイルスに感染したからといって、同一の病名で括るのは、乱暴ではないのか。 ウイルス感染に対する反応パターンが、個々人によって異なる原因が分かれば、一つの病名で括られていたものをいくつかの病名に分けることができるかもしれない。

現在の感染症学は病原体(細菌やウイルス)の感染という事実だけを過度に重視して、そこで切断線を引いて病名を付けているが、この切断線が恣意的でないという保証はない。その他の因子を過小評価している可能性もあり、別のメルクマールで切断線を引いた方が合理的かもしれない。 (メルマガより一部抜粋)

image by:Shutterstock.com

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