リモート社会を見据え、昨年4月から埼玉と名古屋、新潟を結んだ「遠隔講義」に取り組み、手応えと課題を感じてきたシャローム大学校の引地達也さん。その最中に起こったコロナ禍による急激なリモート化は、恐れていた「情報弱者」を生む構造になっていると、メルマガ『ジャーナリスティックなやさしい未来』で訴えています。引地さんは、インクルーシブという概念などなく「健常者」中心になってしまう日本社会の問題を認識すべきと論じています。
リモート社会は「高速道路」情弱化リスクは誰にでも
8月16日に名古屋で予定されていた全国専攻科(特別ニーズ教育)研究会の実践研修講座はウエブでの開催となった。私も登壇者として「遠隔授業を通した学びの連携」と題した発表を行ったが、その中身は新型コロナウイルス前から始めた新潟と名古屋と埼玉を結ぶ遠隔授業から出発したリモート講義の実践と、現状を受けての可能性、その「危惧」であった。
コロナ禍前に始めた遠隔授業はウエブ上でのテレビ会議システムの機能が充実し、静かにテレビ会議が浸透していた時期に、要支援者の福祉や教育の活動の中でもリモートでのコミュニケーションの手法を学び、テレビ会議が一般化する際には「情報弱者」にならないようにとの目標も掲げて始めたものだった。
そして起こったコロナ禍によるリモート社会。怒涛のようなリモート会議、リモート授業、リモート飲み会、リモート出演、リモート討論など、一億総リモート化社会にあって、やはり、ますます障がい者が「情報弱者」になる構造が浮き彫りになり始めている。
この社会、とりわけ日本社会は「健常者」中心に設計されており、その中心円の中にインクルーシブという概念はなく、健常者以外は周縁に置かれてしまう体質にある。だから、リモート社会の始まりとともにその様式が浸透していく社会は、マイノリティを置き去りしてしまうのにためらいがない。これを私はアスファルトに舗装された真っすぐに伸びた道路のような社会であるとの説明をしている。
アスファルトは走ってスピードを出すには申し分のない環境である。人の能力さえあれば、どんどん効率性も生産性も上がる道。ただし、条件がある。それは必要な道具があること。車両ならば、エンジンの性能やタイヤの質がスピードに大きく影響を与えるし、歩行者であれば走り易い靴を履かなければ、不便極まりない。サンダルではスピードはでないし、裸足でアスファルトの道を行くには、現代人の足はあまりにも貧弱だ。
このアスファルト社会は靴を履かない人、持たない人を自然と排除することになる。それが今、「情報弱者」に起こっているのだと思う。
インクルーシブ教育の概念は静かに関係者の中で取り組まれているが、生産性を高めようとするマジョリティの築く道は、「誰もが」通りやすい道として提示しているのかもしれないが、それが「心地よい」かは別問題であるし、その通りやすい道でさえ不親切な構造であることを再度認識する必要があるだろう。
長年、障がい者問題に取り組んでこられたベテランの先生方の中には「リモート会議についていけない」と嘆き、自らが「情報弱者」になっていくことを痛感したという。
この気づきは大きなチャンスでもある。「情報弱者」になる可能性は障がいの有無に関わらず、社会が作り出していることが浮き彫りになるからである。ここから障害学を語る時に前提として示される「社会モデル」は何かを問い直す機会になればと思う。インクルーシブやダイバーシティを展開する前に、「社会モデル」の社会をつくることを自覚的に考えることから始めたい。
最近よく聞くのが「コロナで気づかされた云々」である。大切な人の存在や当たり前の日常の有難さという生活面からの気づきとビジネス面でのデジタル化の促進や非接触系の可能性である。障がい者支援の世界でも、「会うことが前提」の支援から会わずに出来ることで、利用者と支援者のお互いの負担が軽減されたという発見もある。
一方で会わない支援に楽を覚えて電話1本で支援をしたつもりになっている事例もあるから、この態度には注意が必要でもある。支援者が楽な管理に走ってしまい、結局は当事者にアスファルトを歩くことを強いてないか常に社会は注意する必要があるが、そんな気負いは無関係とばかりに、若い方々の頼もしい萌芽も最近いくつか見聞きした。
先日、重度障がい者施設「やまばと学園」の設立50年を記念するインタビュー企画で、長沢道子理事長に福祉領域の未来をおうかがいしたところ、若い方々が障がい者と垣根なくインクルーシブに接している姿を見出していることは、私と同じ認識であり、嬉しくなった。危惧してしまうから、そんな希望がより美しく見える。
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