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遥かに望む北アルプス。安曇野(あずみの)エリアはどこからどこまで?

今夏は新型コロナウイルスの影響もあり訪れる人の数は減ったものの、避暑地として絶大な人気を誇る長野県安曇野地方。平成の大合併のさなかの2005年に誕生した安曇野市ですが、ではその市域以外は「安曇野」とは呼ばないのでしょうか。今回の無料メルマガ『安曇野(あづみの)通信』では著者のUNCLE TELLさんが、「地域的、歴史的に安曇野たるエリアの枠」を探っています。

安曇野はどこからどこまで

私が松本に住んでいた幼少年時、まだ安曇野という呼び方は一般的ではなかった。しかし、安曇の方とか、松本平に続く安曇平(あづみだいら、あずみで~ら)という言い方はされていたように思う。

良く知られたことだが、安曇野という呼び方の普及に決定的な役割を果たしたのは臼井吉見の小説のタイトルになり、出版され広まったことは間違いないだろう

だがこの“安曇野”は、『探訪・安曇野、その旅と歴史ロマン』の著者、中島博昭さんによれば、別に臼井吉見の造語ではないという。すでに明治の末、武者小路実篤の手紙にも「安曇野」の言葉が残っており、また、昭和2年、若山牧水が『夏の安曇野』と題した短歌を発表しており、地元の文化人も何人か使っている例があると言い、このようなことから明治末頃から、文人好みの呼称として一部の人たちの間では、使われきたのだろうと推察している。

臼井吉見がこの事実を知っていたかわからないが、書名に使うことによってほんの一部の人たちがいわば通好みで使っていたこの言葉が、大衆化したのであるようだ。臼井吉見の長編小説『安曇野』は、初め「中央公論」に掲載、後に「展望」に連載されたものが、1965(昭和40)年第1部が、最後の第5部が1974(昭和49)年に筑摩書房から刊行された。単行本、文庫本合わせて37万部あまりが売れたという。

なお臼井吉見の小説『安曇野』は、東京・新宿、中村屋の創始者、相馬愛蔵・良(黒光)夫妻を中心に、明治・大正・昭和に渡って生まれ故郷、安曇野に絡む人々を描いた大河長編小説である。初めてそのペンを執ったのはもう59歳の時。以来、病で中断を余儀なくされた時期もあったが、68歳まで書き継ぎ、ようやく第1部から第5部の大作を完結した。

昭和40年代に、最初(?)の安曇野ブームが起きる。この“安曇野ブーム”を創り出したのは、臼井吉見の『安曇野』の出版、それにNHK朝の連続テレビドラマ『水色の時』(1975・昭和50年、このドラマで大竹しのぶがTVデビュー)の放映も大きく、これによってこの地域は改めて見直され、一躍全国的な観光地になったというのである。

このブームは、地元住民側の熱意や機運が盛り上がって創り出したものではなく、むしろ外から入ってきたものだと中島博昭さんは考察する。そして、地元の人々は安曇野の魅力に外から気づかされたのだという気がするとも語る。例えば、観光客はよく道祖神めぐりをするが、彼らは場所や由来などに大変詳しかったりするが、地元の住民でも知らない人は大勢おり、むしろ外の人に教えられながら安曇野を知り、その良さを再確認して行くかたちになっているというのである。

安曇野はどこからどこまでというような正式(?)な定義なり、公式な見解めいたものはないのではと思う。青少年時と今、松本に住んでいる私の個人的なと独断と偏見的感触で言わせてもらえれば、それは、今は安曇野市になっている旧南安曇郡の穂高町・豊科町を中心に堀金村、三郷村、梓川村、旧東筑摩郡明科町、北安曇郡の松川村、池田町である。私のイメージの中では北の大町市までは入らない。なお、松川村、池田町は現在もそのままだが、旧南安曇郡で隣合っていた三郷村は安曇野市に、一方梓川村は松本市に入る道を選択した。

『探訪・安曇野、その旅と歴史ロマン』の著者、中島博昭さんは、三つの指標を揚げている。ひとつは、北アルプスから流れ出てくる河川が形成した扇状地であるという点。それもいくつかの河川による複合扇状地。歴史をたどると、梓川から北、犀川の西。つまり筑摩郡と安曇郡の接点が境となっているというのである。二つは、かって安曇氏が支配した地域であること。三つは、住民自身が自分たちの住む地を「安曇平」と呼んできたかどうかの事実。このポイントに基づき中島さんが各地を回って調べたところ、ほぼ安曇野の範囲を押さえることが出来たというのである。

中島さんは言う。結論的に述べるならば、南は梓川から北は大町まで、東は犀川、西は北アルプスが境になる。扇状地でいうなら、南から梓川扇状地左岸黒沢川、鳥川、中房川、乳川、高瀬川の扇状地がおもなものである。中島さんは、大町も佐野坂以南を安曇野としている。

二つ目の指標は安曇氏の支配した地域ということであるが、安曇野と郡名の安曇の由来になっている一族である。6世紀ごろこの地へ北九州からやってきたとされる。本来、北九州の博多付近、志賀島一帯を本拠地にする航海、交易海軍の仕事に携わる海人族であった。安曇氏は、都でも大和政権に使える連姓(むらじ)を持つ有力豪族だった。色々の説があり理由ははっきりしないが、6~7世紀、その一族が安曇野など全国各地に移住したのである。なお、安曇氏の物語については、別途少し詳しくふれたいと思っている。

地域的、歴史的に安曇野たるエリアのおおよその枠は理解いただけただろうか。中島さんの著作は1997年発行であるが、南の梓川以北、東の犀川以西、西のアルプス以東はわかる。しかし、歴史的にはともかく安曇野は現在の、しかもこの30年来ほどの地域の呼び方である。大町市の住民は、自分の住むところが安曇野だと認識しているだろうか。むしろ、大町は大町だと思っているのではないだろうか。観光ガイド誌などの捉え方はどうだろうか。次回は安曇野の範囲にからめ、安曇野市誕生のいきさつなどについて若干ふれたい。 UNCLE TELL

image by: Shutterstock.com

『安曇野(あづみの)通信』

『安曇野(あづみの)通信』

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発刊以来10年、みすずかる信濃はアルプスの麓、安曇野を中心に信濃の光と風、懐かしき食べものたち、 野の花、石仏、植物誌、白鳥、温泉、そしてもろもろ考現学などを、ユニークな(?)筆致でお届け!

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