突き放せ、カネはカネだ。私が「お金」をあえて「カネ」と書く理由

 

上に挙げたような話は、あくまで一例に過ぎませんが、私(鮒谷)自身が、同様のことを幾度も経験してきました。

こうして身体を通して、ようやく「お金を突き放して捉える(主観と切り離して認識する)」ことの大切さを理解したのです。

その状態を意図的に作るために、自分に対する戒めというのか、一種の儀式というのか、そんな意味合いを持たせて、お金のことをあえて「カネ」と表記している、ということです。

それは私(鮒谷)にとっての「決めごと」に過ぎないので、そう呼ぶべきだなどというつもりはさらさらありませんし、勧めているわけでももちろんありません。

ただ、これは私(鮒谷)だけかもしれませんが、こうした記述を意図的に行うことで「よくも悪くも、たかがカネ」という冷めた捉え方を出来るようになり、お金に対して過度の思い入れを持つことはなくなりました。

そして、こうした客観的な捉え方をすることによって、(お金に心を引きずられることなく)お金にまつわる、より精度の高い意思決定を行えるようになった、という実感は、間違いなくあるのです。

たしかに、こうした記述は「下品」であることは認めます。カネ、カネ、言っているのは控えめにいっても「お上品」ではなさそうです。

カネ、と呼ぶことによって他者からどのように見られるか、を理解しているからなのでしょう、私(鮒谷)の友人でも、(仲間うちではカネ、カネ、言っているにもかかわらず)著書や自らの持つ媒体、あるいは講演やセミナー等では、かたくなに「お金」と呼んでいる人がいるのですが、処世の術としてはおそらくそちらが正しそうです。

しかし私(鮒谷)は天の邪鬼なので、可能な限り、あらゆる面においてあまりウラオモテを作りたくないのと、(ウラオモテを作るほど、実像と虚像のギャップ調整が面倒になるので、ありのままに振る舞おう、というのが私の基本姿勢)それともう一つの理由として、ここまで記述してきた通り「お金と感情を極力、切り離し、思い入れを廃して扱いたい」という思いから、あえて「カネ」という表記を多用してきた次第です。

つまり私(鮒谷)の脳内辞書には【お金】の項目についての説明文に「過剰な思い入れや感情を持つほどコントロールを効かせられなくなり、失われやすいもの」と記述があり、続けて、「その感情を手放すため、あえて『カネ』という表記に置換している人もある」と記載されている、ということです。

なにもこの、(脳内)辞書表記が正しいかどうか、について、ここで問いたいわけではありません。

みんな違ってみんないい、のです。

ただ、私(鮒谷)個人の脳内辞書には、【お金】の説明がそのように記され、記述されている通りに振る舞っている、というだけの話です。

お金という言葉もまた、毎日、何回、何十回と用いる「基本語」といえますが、私たちの認識(世界の捉え方と振る舞い)の土台となる基本的な言葉について、あなたはどのような定義を与えているでしょう。

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著者/鮒谷周史
大阪府出身、早稲田大学商学部卒業。投資家・経営者。複数の高収益企業を経営しながら、ITや金融、人材などのベンチャー企業20社超への投資家としての顔も持つ。著書「仕事はかけ算」がベストセラー。メルマガ「平成進化論」を配信中。
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