著者が弔辞を述べることで、三島の右翼思想を擁護しているように取られてはまずいというのだった。最終的に彼らの説得に応じたが、それ以来彼は、勇気を示さなかったことを何度も後悔したという。葬儀委員長は「葬式の名人」として知られる川端康成、三島の文学的才能を認めた最初の一人である。なぜスウェーデン・アカデミーは、三島ではなく川端に賞を与えたのだろうか。
後に著者は、川端に賞を取らせたのだのはおれだと宣う、日本文学の権威として名声を得た男に会う。政治的に極めて保守的な見解の持主で、三島は比較的若いため過激派に違いないと判断した。そこで彼は三島の受賞に強く反対し、川端を強く推した結果、委員会を承服させたというのだ。ばかげた話だ。著者はこのことを、三島に話さずにはいられなかった。三島は、笑わなかった。
三島は川端の受賞を喜び、その気持ちに嘘はなかった。しかしノーベル文学賞の順番が回ってくる地理的要因から考えて、次の日本人の受賞まで20年はかかることを知っていた。彼はそれまで待てなかった。ライフワーク四部作も終わりに近づき、死への道を遮るものは何もなかった。2006年に出版されたこの本に三島自決の真相があった。わが書棚の三島全集、未だに手着かず…。
編集長 柴田忠男
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