【書評】なぜ三島由紀夫はノーベル文学賞を受賞できなかったのか

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今年も巡ってきた、ノーベル賞の季節。10月8日には文学賞が発表されますが、川端康成が日本人として初めて同賞を受賞した年、三島由紀夫も有力候補として名が挙がっていたことをご存知でしょうか。今回の無料メルマガ『クリエイターへ【日刊デジタルクリエイターズ】』で編集長の柴田忠男さんが紹介しているのは、日本文学研究者のドナルド・キーン氏が、1968年のノーベル文学賞の裏事情等を綴った一冊。スウェーデン・アカデミーが選んだのな、なぜ三島ではなかったのでしょうか。

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私と20世紀のクロニクル
ドナルド・キーン 著/中央公論社

ノーベル文学賞の順番が日本に回ってきたのは1968年だった。ドナルド・キーンは、受賞は三島由紀夫以外にありえないと確信していた。しかし受賞者は川端康成で、三島ではなかった。「この最も権威ある賞を川端が受賞したことは、確かに喜ぶべきことであったに違いない。しかし、このことが二人の死の一因となったかもしれない」と、欧州で権威ある賞の審査を経験している彼は書く。

次の10年間に起きた最初の重要な出来事、とくに著者にとってのそれは1970年11月25日の三島の死だった。佐藤栄作首相は、三島の自決を「狂人」の行為だと断定する心ないコメントを出した。著者と三島は16年の親交があったが、秘密を共有しなかったし、互いに助言を求めることもしなかった。二人の付き合いは、いつも折り目正しいものだった。三島は筋の通った礼儀正しさがあった。

三島は鮨屋ではいつも中トロばかりを注文した。彼にはつまらない魚に時間を潰している暇などなかったのだ。『豊饒の海』四部作に、作家として身につけたすべてを注ぎ込んだと言う彼は、笑いを浮かべながら付け加えた。あと残っているのは死ぬことだけだ、と。著者は誓いを破って「何か悩んでいることがあるんだったら、話してくれませんか」と聞くと、目をそらして無言だった。

しかし三島は3か月後に自分が死ぬことを知っていたのだ。9月、著者はニューヨークへ向かうため羽田にいた。姿を現した三島は無精髭で目が充血していた。いつもと違う彼の行動が、何かを予兆しているとは思いもしなかった。これが、彼が三島に会った最後だった。三島は同行した友人たちに「つまらない死に方はしたくない」と言った。ニューヨークと東京で、数通の手紙交換があった。

なぜ『豊饒の海』というタイトルをつけたのかを尋ねると「『豊饒の海』は月のカラカラな嘘の海を暗示した題で、強ひていへば、宇宙的虚無感と豊かな海のイメージをダブらせたやうなものであり、禅語の『時は海なり』を思ひ出していただいてもかまひません」という返事だった。著者はその意味が分からなかった。三島は世界が全く意味がないものだという結論に達したのだろうか。

事件の起きた日の24時ごろ、ニューヨークの著者の部屋の電話が鳴った。読売新聞ワシントン支局からで、数時間前に起きたことを手短に述べ感想を求めた。呆然として理論的に返答できなかったが、同じ問いの電話は一晩中鳴り続けて、次第に理路整然と語れるようになった。東京に戻ったのは、三島の葬式の直前で、弔辞を述べることを引き受けたが、親しい友人三人は葬式に出るなという。

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