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知って納得。国民年金の加入義務化を喜んだ日本の記憶と岸信介の悲願

今では国民全員が加入し、さまざまな手厚い保障が受けられる国民年金。実はこの年金が創設され、大きな改正が行われるまでには多くの出来事がありました。 今回の無料メルマガ『年金アドバイザーが教える!楽しく学ぶ公的年金講座』では著者のhirokiさんが、国民年金創設時の時代背景などを詳しく解説し、年金の歩みを紹介しています。

激動の時代に国民が望んだ国民年金創設と、日米安保反対運動のとばっちりを受けた国民年金

今日の記事は2年ほど前に無料メルマガで配信したものですが、アレンジして再度配信しました。

国民年金は昭和34年4月に創設され、今の保険料支払って万が一に備えるタイプのものは昭和36年4月から始まった社会保険方式のものが現在の国民年金の基盤となっています。

国民年金は元総理である安倍議員のお祖父さんにあたる、岸信介内閣の時にできたものであります。余談ですが、この昭和34年は上皇様と上皇后美智子様のご成婚パレードが4月10日に行われたという明るいニュースがあった年でありました。それと同時に岸信介元総理というと新安保条約にて非常に日本全土が安保反対闘争という大規模な闘争に沸いた時期でもあります。

岸総理というとよく歴史では安保闘争の話題が出てきがちですが(たぶん日本史でもその辺が主だと思う)、国民年金創設に関しても岸総理は取り組んでいたわけです(この時の最大の目玉だった国民年金創設に関しては学校教育で取り上げられる事は無いですけどね…)。

昭和30年代とか昭和40年代は景気が良い時代でしたが、学生や労働者の闘争とか公害がよく話題になる時代でもありました。

ちょっとその時代の歴史に触れますが、安保体制というのは日米安全保障条約の事(米軍の日本駐留を認める条約の事)です。

昭和20年代の代表的な首相だった吉田茂首相が昭和26年にアメリカ側の資本主義国側とサンフランシスコ講和条約を結んで日本が独立を果たした時に、その代わりアメリカが日本に米軍基地を置いてアメリカが日本の安全を保障するという条約であります(昭和27年4月発効)。

ただ、この時の安保条約は米軍は「日本の安全を守る事ができる」という守っても守らなくてもいいという不公平なものであったので、岸信介総理は昭和35年の新たな安保条約にて米軍が日本を守る事を義務とさせて公平なものとさせたのであります。

その新安保は昭和35年5月19日の強行採決から、1ヶ月後の6月19日に新安保体制が自然承認されました。自然承認される前に国会では安保阻止のために30万人もの人が国会を包囲して警官隊と衝突するという大混乱の中でした。なぜそんな大規模な闘争があったかというと、アメリカをこのまま日本においてたら戦争に巻き込まれるのではないかという不安を国民が抱いたからです。

とはいえ、国民は日米安全保障条約の事は正直よくわかっていなかったと思います。大体、何かの反対運動って「(意味はよく分からんけど)反対だー!ゆるさーんo(`ω´ )o!」って盛り上がりますよね。

吉田茂内閣の時の昭和26年にサンフランシスコ講和条約で日本はアメリカの占領からようやく独立国となりました。独立国となったのに、「アメリカに占領されてた時と同じような権利を持たせていて構わない」というのが吉田茂内閣の時の日米安保条約でした。

でも、岸信介総理は「それでは日本は独立国になっていないから、防衛に関しては平等の立場になりましょう」という事で日米安保条約の改正に踏み切ったんです。アメリカとの関係を対等にしたいという事だった。まあ日本は独立したんだから当然ですよね。なのに、安保条約の改正は許さん!っていう大きな闘争が巻き起こったのです。

この時の安保反対運動というのは、「独立国の日本としてアメリカと対等の立場になろうとするのに、戦後のアメリカに占領されてた時と同じでいいですよ」って言ってるのと同じですよね。だから安保条約の事はよくわからないまま反対運動してた人がほとんどだったんでしょう。当時の社会党のように、日本が独立する事を望まない勢力も居たからですね。日本に独立してもらうと都合が悪いというね。

国民は安保の内容はよくわからなかったけど自民党が強行採決をした事で、民主主義の危機を感じて国民の不安意識に火が付いた。国会を包囲して新安保阻止しようとしたとはいえ、もうこの時は衆議院の優越っていうのがあって衆議院で決まっちゃった事はもう30日経てば自動で法律は成立という状態だったんですね。条約とか予算に関してはとても重要だから参議院で否決されようが、衆議院が優先される。

ところで戦後の新憲法(昭和21年11月3日公布の昭和22年5月3日施行)により、憲法9条にて日本は戦力を持たないという事になりましたよね。憲法9条のおかげで日本は戦争から守られているんだ!というような感じになってますが、もし日本が戦後のアメリカの占領時から独立時に独立だけだったら日本は無防備な丸裸状態のままでした。

そうなると当時の旧ソ連(今のロシア)、中国、北朝鮮とか東アジア全体が急速な勢いで共産主義化(当時の共産主義って人間が持ってる財産をすべて国有化して皆平等の世界にして、しかもそれは君主や資本家を徹底的に粛清するという暴力的なものだった。例外は無い)が進んでる中では日本もきっと巻き込まれていたでしょうね。

北朝鮮とかよく話題になりますが、ソ連と中国の昭和時代の歴史はホント酷かったですからね。あとカンボジアのポルポトとかベトナム戦争後の共産軍による南ベトナムでの殺戮とか。

知ってる人は知ってると思いますが、昭和41年から始まった毛沢東による中国の「文化大革命」で中国の文化財や知識人が徹底的に破壊し尽くすされてしまいましたからね。中国って国はそういう負の歴史は隠そうとする。武漢で始まったコロナウイルスの件もそういう隠ぺい体質のせいで世界の対応が遅れた。ソ連や中国どちらの国も何千万人という人が犠牲になったといわれます。独裁政権の恐ろしさですね。

特にソ連は日本にとっては危険な国だったから、戦力を持たなくなった日本がその共産主義化の脅威から守るためにも日米安全保障条約を結んで資本主義のアメリカ側に付く事で平和が守られてきた。

日本の平和が維持されてきたのは崇め奉られている憲法9条のおかげなんかじゃなく、日米安全保障条約があったからです。

戦後長く続いた東側の共産主義国のソ連(1991年に消滅)と西側の資本主義国のアメリカの東西冷戦でソ連の敵だったアメリカが、日本と同盟を結んでいたからソ連は日本に手出しができなかった。日米安保も無い、日本は戦力を持たない…であれば、好きに攻撃させてもらいますよっていう危険な国は周りにはある。

アメリカとソ連は核保有国で実際の戦争は出来ずに睨み合い続ける冷たい戦争だったけど(一旦、核戦争になったら人類滅亡するから)、この東西冷戦のせいで第二次世界大戦後も東側の国と西側陣営の国が火花を上げる戦争をした。

最近であれば尖閣諸島への中国の蛮行は目に余りますよね。あの民主党政権時に中国漁船が追突してきた時に、中国人船長を無罪で釈放してから日本は本当に舐められるようになってしまった。それが中国を付け上がらせ、日本軽視の要因になってしまった。民主党政権時の最大の悲劇は国際的立場が弱くなった事です。

話が年金から飛びすぎましたが、国民年金創設時の時代の背景を先に知ってもらうためでした。日本は平和ボケしてるけど世界では本当に血なまぐさい出来事だらけだった。

さて、年金の話に戻りますが国民年金法が求められる昭和30年頃、約4,000万人の就業者がいました。しかしその中の約1,200万人程度しか年金(厚生年金や共済年金、恩給)には入っていませんでした。つまりそれ以外の人には何の年金も保障されてなかったのであります。

昭和29年5月になって報酬に比例する年金のみだった厚生年金が、加入に比例して支給される年金(定額部分)と報酬に比例して金額が変わる年金(報酬比例部分)という形に大改正されました。

まあ、建物で言うと1階部分に定額部分+2階部分に報酬比例部分という事ですね。今の1階部分は国民年金(基礎年金)が、昭和60年改正で廃止された定額部分にとって変わってますけどね。

さらにこの頃って私立学校が共済組合を作り(昭和29年1月)、また中小企業などが独自の共済組合を作ってしまおうという動きも出てきました。

そういう社会の動きに刺激され、零細企業の年金制度からあぶれた人や、雇用者ではない自営業者や農村の人からも僕らにも年金作ってほしい!っていう声が次第に高まっていきました。

昭和33年の総選挙では当時の2大政党として君臨していた自民党と野党の社会党も国民年金創設が最大の選挙公約だったんです。だから記事の序盤に岸総理の時代の安保反対闘争の歴史の話をしたのです^^;投票率も確か79%くらいで戦後最大。とにかく戦後の普通選挙では過去最高の投票率。

ちなみに女性が普通選挙に投票できるようになったのは昭和20年(女性も投票できるようになってから最初の普通選挙は昭和21年)から。女子は第二次世界大戦が終わるまで選挙権は無かった。

それくらい国民にとっては国民年金は関心事だった。それは、核家族化(夫婦とその子)の進行でいろんな人が老後に不安を抱き始めたからというのもある。

戦前は家族制度というのが日本にありました。家の父が長である制度。家の長男が代々家を継ぐという形で家を守ってきました。戦後はそれが無くなって、夫婦二人だけの問題になりました。

結婚というのはそもそも家系を絶やさないためにあったようなものなので、子供ができない時は養子を取って家を守り続けてきたけども、戦後は夫婦二人が中心となった。家がバラバラになっていったんですね。

そうするとどうなるかというと、老後は誰が面倒見るのかというと国が見なければならなくなるのです。国民年金創設が一大目標となったのはこういう不安からです。

本当は厚生省としては、農村漁村を中心に昭和13年にできた国民健康保険を全国に適用させるのが先と思っていて、昭和32年から4ヵ年計画で国民健康保険を健康保険とか共済からあぶれた人に適用しようとしていた。3,000万人程(当時の国民の3分の1にあたる)がまだ医療保険には未適用だったから。医療保険無かったら3割負担ではなく10割全部個人が医療費払いますね。

でも、総選挙で自民党が勝って国民全員に国民年金を貰えるようにする!って約束しちゃったもんだから、国民健康保険と国民年金創設の同時進行となっていった。当時は国民年金に加入させようとする人の内(概ね3,300万人)、所得税を支払えてる人は約650万人とされていた。

ほとんどの人が非課税世帯の状態だったのに保険に加入させて年金保険料を支払ってもらおうとするのはほぼ不可能という考えではありましたが、そこは国民年金保険料免除制度を導入する事ですべてをカバーして国民年金に国民すべてが加入できるようになった。まあ、支払えない間は免除にして支払える時に支払ってもらおうと。

そんな事が重なって、たまたま偶然にも国民皆保険と国民皆年金が昭和36年4月に達成された。同時達成は意図されていたものではなかったが、たまたま同時になった。同昭和36年から池田勇人内閣の10年で所得倍増計画が始まる。社会保障が経済の発展を支える事になる。

でも記事の冒頭で書いたように、岸信介内閣の時の新安保条約成立の反対闘争エネルギーが国民年金反対運動へ向かってしまい、昭和35年10月からの国民年金手帳配布の頃に「国民年金保険料なんて支払うなー!手帳は返してしまえー!」っていう運動が総選挙に負けた野党を中心として全国に広まってしまった。とりあえずの理由は国民年金は年金額が低く、保険料が高い、途中で死んだら支払い損という事で悪評が広まってしまった。

国民年金は国民が望んだものですが、一旦保険料の徴収が始まろうとすると安保闘争に負けた野党が腹いせで国民年金反対運動に転じてしまった。国民年金自体が反対されたというか、安保闘争のエネルギーのせいで国民年金反対の方向に向いてしまった。国民年金が次の反対運動のターゲットにされてしまったというか。なんだかよくわかんないけど反対反対っていう運動が盛り上がっていった。その徴収する保険料が戦費調達のために使われるというようにも捉えられてしまって、誤解と共に都市部を中心に反対運動が全国に広まっていった。

国民年金への理解がなかなか浸透しない中、国民年金強制加入者は1,488万人で、任意加入者は220万人という当初の目的だった80%以上の加入が達成されたからまあまあの走り出しだった。その後、昭和40年に強制と任意加入合わせて22,000万人を達成。

しかし、産業の変化で農業者や自営業者がどんどん減っていき、民間企業に雇用される雇用者(厚生年金)が急増していった。これにより国民年金保険料を支払う人が少なくなっていって、国民年金の財政が危機的になっていった。昭和60年の改正が行われるまでは国民年金、厚生年金、共済年金というのは別々の制度だった。

ただ、この頃はサラリーマンや公務員の専業主婦は国民年金には強制加入ではなかったが、この任意の加入だった専業主婦の人達の加入の増加により国民年金の財政が何とか支えられていた。

この任意加入の人達は大体200万人程でしたが、昭和50年には600万人ほどになり、昭和55年には780万人、昭和60年には750万人というふうにかなりの人が加入していた。昭和50年から国民年金強制加入の人が減少していく中で、専業主婦の人達が国民年金財政を支えていたわけですね。でもそういう人達は、あくまで任意の加入だから将来的に加入者が増えるのか減るのか確実性もなく、それに国民年金財政は変わらず危機的だった。

そこで昭和60年改正(昭和61年4月施行)により、国民年金をその名の通りすべての産業に関係なく共通部分の年金(基礎年金)として各年金制度(国民年金、厚生年金、共済年金)の加入者の頭数に応じて拠出金を出し合い、国民年金の基礎年金を負担するという形に変わった。これにより国民年金財政は産業の影響を受けない安定したものとなった。

また、共済年金というのはそもそも公務員の福利厚生のようなものでしたが、厚生年金や国民年金に比べて給付がとても高くて官民格差を是正せよ!っていう声が昭和50年代になってくると強くなってきたから、共済年金もこの基礎年金に乗ってきた。共済年金が公的年金的な色を強める事になった。

まあ、共済年金は昭和59年4月に国家公務員共済組合が統合した国鉄共済組合というほぼ財政破綻していた共済組合を抱えていたから、この機に共通部分の年金は各年金制度が負担しあうという基礎年金に乗ってきたという理由もある。

昭和60年の年金大改正は国民年金財政を救うためのものでもあったが、この改正の時に今までサラリーマンの専業主婦は任意加入だったのが強制加入となり、また、20歳未満の傷病による障害者の人には低額な福祉年金を支給するしかなかったがそういう20歳前障害の人にも給付の高い障害基礎年金を支給する事とし、大幅な障害年金の改善が図られた。

昭和60年改正の時は中曽根康弘首相の時ですが、中曽根首相の大きな政策は赤字続きだった国鉄や、電電公社(今のNTT)、日本専売公社(今のJT)の民営化がよく挙げられます。しかし最大の政策は基礎年金制度の導入だった。

昭和50年代まで引き上げすぎてきてしまった年金給付の削減をして少子高齢化に耐えうる大手術を行い、バラバラになっていた各年金制度の中に共通部分を作って綺麗な形にした昭和60年改正は年金の歴史上では最高の知恵だと思う。年金にはいろんな改正がありましたが、この昭和60年改正ほどスゴイ改正は無かったと思う。

この昭和60年の年金大改正は山口新一郎さんという年金局長だった人が癌と戦いながら命を懸けて作り上げたものですが、昭和59年の国会に出す前に亡くなられました。しかし、その内容は非常によくできていたため基礎年金制度は山口さんを引き継いだ部下の人達が法案を通し、可決されました。

しかしそんな、年金史上最高の知恵も少子高齢化の予想をはるかに超えた進行でその後も大きな改正が行われてきたわけですね。でもベースは全て昭和60年改正の基礎年金です。

なお、昭和60年からある出来事でバブル景気へと突入する事になり、旧大蔵省の稚拙な規制のせいでバブルは崩壊し長引く平成不況が始まる…。バブル経済の流れと年金の事については、12月30日発行の有料メルマガで特集します。

12月30日発行の有料メルマガ『事例と仕組みから学ぶ公的年金講座』第170号は「バブルの始まりから崩壊までの流れと年金制度、その後の最大の問題であった少子高齢化と平成不況(年末特集)」です。

それではこの辺で。

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年金アドバイザーhirokiこの著者の記事一覧

佐賀県出身。1979年生まれ。佐賀大学経済学部卒業。民間企業に勤務しながら、2009年社会保険労務士試験合格。
その翌年に民間企業を退職してから年金相談の現場にて年金相談員を経て統括者を務め、相談員の指導教育に携わってきました。
年金は国民全員に直結するテーマにもかかわらず、とても難解でわかりにくい制度のためその内容や仕組みを一般の方々が学ぶ機会や知る機会がなかなかありません。
私のメルマガの場合、よく事例や数字を多用します。
なぜなら年金の用語は非常に難しく、用語や条文を並べ立ててもイメージが掴みづらいからです。
このメルマガを読んでいれば年金制度の全体の流れが掴めると同時に、事例による年金計算や考え方、年金の歴史や背景なども盛り込みますので気軽に楽しみながら読んでいただけたらと思います。

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【著者】 年金アドバイザーhiroki 【発行周期】 不定期配信

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