ホンマでっか池田教授が年の瀬に考える「人の役に立つ」って何だ?

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昨今、「生産性」で人間の価値を測ることが問題になっています。例えば障がいの有無や、結婚・出産など、差別発言などが話題にあがるたびに多くの議論が起きています。CX系「ホンマでっか!?TV」でもお馴染み、メルマガ『池田清彦のやせ我慢日記』著者の池田清彦教授は、人間の歴史をひもときながら、「人の役に立つ」というのはどういうことかについて、あらためて考察しています。

「役に立つ」とはどういうことか

人間を「役に立つ人間」と「役に立たない人間」に峻別して、「役に立つ人間」を増やして、「役に立たない人間」を減らそうという優生思想の行きつく先は「ナチズム」であるが、最近の「生産性」のない人間に対するバッシングを見ていると、ナチズムの亡霊は未だに残っているようで、暗澹たる気持ちになる。

そもそも、役に立つとは一体どういうことだろう。我々の身の回りにある様々な道具は、生活の役に立つ。自動車や自転車は移動の手段としてとても役に立つが、壊れて修理不能になれば、役に立たなくなって、粗大ごみになってしまう。道具は役に立つ間だけ価値があって、役に立たなくなれば無価値だということだ。人間の生活が至上で、道具はそれに奉仕するものだというごく普通の考えに立てば、これは真にもっともなことだ。

この伝でいけば、「役に立つ人間」という言い方の中には、個人は個人を超える何か崇高なものの存続のための道具だという考えが、インプリシットにではあれ、存在しているに違いない。戦前、国民は国家の役に立つ人間にならなければならないという思想を徹底的に吹き込まれた大日本帝国臣民は、国家のために戦って(ごく少数の賢い人は馬鹿々々しいと思っていたに違いないが)、多くの人は命を落とし、さらに多くの人は生き延びて、大日本帝国そのものは滅んでしまった。

主体(この場合は大日本帝国)に奉仕すべき道具(この場合は国民)は滅びずに生き延びたが、主体そのものは滅んでしまったという結末は、一般的な意味では倒錯だけれども、道具が奉仕すべき崇高な存在は滅んでも、道具たる人間は、人類滅亡の日まで滅びないというのは不滅の真理である。

崇高な存在というのは、国家であれ神であれ、資本主義であれ、その他どんなイデオロギーであれ、所詮、人間の脳が作り出した概念に過ぎない。概念は実在せず、生物としての個々の人間は実在するわけだから、前者が消滅しても、後者は消滅せず、後者が消滅すれば前者も消滅するのは当然なのだ。だから、個々の人間が、国家や資本主義のために奉仕するという構図は、コトバの真の意味において倒錯なのである。

人類が狩猟採集生活をしていた頃は、個人は自分が生き延びることに精いっぱいで、何かの役に立つために生きるという観念は希薄であったろう。バンドと呼ばれる50人~100人くらいの集団で暮らしていて、お互いに助け合って生きていたに違いないが、それは畢竟、自身と子孫の生存率を上げるための行動で、バンドに奉仕するための行動ではなかった。

農耕が始まって穀物を蓄積できるようになり、貧富の差が拡大して、階級社会が形成されると、支配階級は被支配階級を従わせるための装置として、個人を超える崇高な概念を捏造して、そのために働くのは貴いことだという物語を流布しだしたのである。己の属する集団のために命をかければ、死後、神になれるとか、天国に行けるとかの嘘八百を並べ立てて、被支配階級を懐柔したのである。一方で、支配階級に盾つく奴は処刑したり、追放したりして、いわば飴と鞭で体制の維持を図ったのである。

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