ホンマでっか池田教授が年の瀬に考える「人の役に立つ」って何だ?

 

人間の脳には崇高な存在を崇めるという不思議な機能があって(私のようにそういう機能をほぼ持たない脳の持ち主も稀にいるが)、崇高なものの役に立つことに快感を覚える人が少なからずいる。先に述べたように、しかし、国家や神は幻想であるから、支配階級の「国家や神のために命をかけろ」との煽動は、支配階級の利益のために命をかけろということに他ならない。

支配階級のトップを生き神様にして、至高な存在に奉ってしまうやり方もある。「朕は国家なり」と言い放ったルイ14世や、戦前の天皇は、神とほぼ同格の存在であった。しかし、生身の人間を崇高な存在にしようとの戦略は必ず破綻する。生身の人間は現象で、必ず変化するが、崇高な存在は脳内の概念で、とりあえず不変だからである。

そこで、近代になると、国家などの集団はその成員たる個人よりも上位の存在であるという理屈を、科学の衣に包んで説明する学説が現れた。国家有機体論と呼ばれるこの学説は、国家と国民の関係を、生物個体と細胞の関係に擬するもので、もちろん典型的な疑似科学である。

生物の個体、特に高等動物の個体は極めて複雑なシステムで、システムが不調になれば、個体を構築している細胞がシステムを調整したり修復したりする。システムを支える細胞は、システムの維持のために働き、個体は至上の存在であるが、ほとんどの細胞はいわば使い捨ての存在である。国家有機体論者は、このことを国家と国民の関係に敷衍して、国家は至上であるが国民は国家のための道具だと言いたいわけであろう。

しかし、全く異なるところもある。高等動物の個体が滅びれば、それを構成する細胞もほどなくして滅んでしまうが、国は滅んでも国民は死なない。個体のシステムを維持する基本的なルールは極めて保守的で、遺伝暗号や発生システムを変えることは不可能だが、国家は憲法を変えることも不可能ではない。

何よりの違いは、高等動物の個体は固有の欲求を持ち、自らの行動の決定権も持つが、細胞はそのようなものは持たない。また、国家の欲望や政策決定は、国家そのものではなく、国家に属する人間(個体)の誰かが行っていることだ。行動を決定する最上位の存在は個体であって、国家という概念でもなければ、細胞という実体でもない。

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