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ホンマでっか池田教授が探る「贈与と権力」奢りたい人の心理とは

日本の社会には、1食7万円もの食事をご馳走してもらえる世界線が存在するようですが、一般的には「奢る」「与える」という行為は立場が上の者が下の者に対してなされ、その上下関係を定着するのに利用されることが多いようです。メルマガ『池田清彦のやせ我慢日記』著者で、CX系「ホンマでっか!?TV」でもお馴染みの池田清彦教授が人間社会の「贈与と権力」の関係を考察。貧富の格差が広がり続ける現代社会には、富を平準化するシステムが必要と考え、北米先住民の社会にあった贈与するほど地位が上がる仕組みを紹介し、可能性を探ります。

贈与と権力

我々の社会では他人に贈り物をしたり、食事を奢ったりすることは比較的普通の行為で、一度もそういうことをしたことがない人はよほどの貧乏人か、さもなければよほどのケチであろう。それでは人はなぜ他人に贈与するのか。ほとんどの場合、何らかの見返りを期待しての行為であることは間違いない。

結婚相手を紹介してほしいとか、知らない土地に引っ越すことになったので、その地に長く住んでいる知人に様々な情報を教えて欲しい、とかいった頼み事をするときに、手土産を持っていくのは日本ではごく一般的な習慣であろう。しかし、贈り物の習慣が嵩じて、贈り物を渡して議員選挙の投票の依頼をするとか、公共機関の入札に関して便宜を図ってもらうとかすれば、これらは立派な犯罪である。

お気に入りの芸能人やスポーツ選手に贈り物をするファンは、何の見返りも得られないではないか、といった反論もあろうが、金銭的、物質的な見返りがなくとも、憧れのスターとかかわりを持ったという精神的な満足感も、贈り物の見返りと言えなくもない。しかし、何といっても最も一般的な贈与の見返りは、贈与に伴って、何らかの上下関係が発生し固定化することであろう。

大学に勤めていた時は、ゼミや親しい学生たちに時々食事を奢っていた。私と学生たちとの上下関係は自明だったので、上下関係をはっきりさせるために飯を奢っていたわけではなかったけれど、美味いものを食べさせてくれた人に懐くというのは、かなり一般的な真理なので、私とこれらの学生たちとの関係は概ね良好であった。

大学の学部の教師と学生の間には利害関係はほとんどないので(大学院になると多少微妙だ)、飯を奢っても奢ってもらっても生臭い関係になることはまずない。時々、パワハラとかセクハラとかいった話もないわけではないが、それは権力を笠に着て、教師が学生に無理強いするからであって、来るものは拒まず、去る者は追わず、という態度を貫けば、そういう話にはならない。

会社の上司と部下の関係になるとそうはいかない。飯は上司が奢ってくれることが普通であろうが、部下は上司の誘いを断り辛い場合が多いだろう。飯を奢ってもらって嬉しいだろうという顔をされて、尊敬もしていない上司の自慢話を聞かされるのは、勘弁してほしいと思う部下も少なくないはずだ。

いずれにせよ、教師と学生の場合も、上司と部下の場合も、社会的立場が上の人が奢る人で、社会的立場が下の人は奢られる人という関係がひっくり返ることはない。違いがあるとすれば、前者より後者の方がObligatory(逃れられない)ということだけだ。

特別な頼み事がある場合は別にして、下の人が上の人に贈与をすることはまずないということは、最初は対等だった人の片方が贈与をする人で、もう片方が贈与をされる人であれば、暫くすると前者の立場が後者よりも強くなることは避けられない。別言すれば、自分の方が優位に立ちたい人は、贈与をしたくなるということだ。デートをして、男性が女性に奢るのは優位に立ちたいからで、奢ってもらうのは絶対嫌だという女性は、対等の立場を貫きたいのである。

現代では権力は複雑に分散されていて、贈与するされるという行為と、公的な権力は直接的な関係を持たないが、私的な所では贈与と権力は密接な関係があることは間違いない。貨幣経済以前の社会においては、私的な権力ばかりでなく、社会的な権力もまた贈与と強く相関していたと思われる。

北アメリカの太平洋岸北西部の先住民族社会では、ポトラッチと称する贈与儀式があり、裕福な家族や部族の指導者が、招待客を祝宴でもてなし、様々な財を贈与する。一族の地位は所有する富の規模ではなく、ポトラッチで贈与する富の規模で決まったので、高い地位に就きたい者は競って富を蕩尽したのである。

最初は、ポトラッチの規模によって社会的地位が決まるにしても、社会的な地位がある程度固定されると、ポトラッチを行わなければ地位を維持できないので、ポトラッチはObligatoryになったと思われる。フランスの文化人類学者のマルセル・モースは、ポトラッチのシステムを分析して『贈与論』(原著1925年発行、邦訳も複数ある)を著し、ポトラッチには3つの義務があるという結論を導いた。与える義務、受け取る義務、返礼の義務である。

「与える義務」からポトラッチは始まると言ってよい。この義務を遂行しない者は、社会的地位を築けない。送られた者には「受け取る義務」があり、受け取らなければ、敵対関係になることを覚悟する必要がある。返礼品を送らなかったり、自分の地位に見合った返礼品を返さなければ、社会的地位を失ったり、劣位になったりするので、社会的地位を維持したければ、返礼はObligatoryになる。

最後の「返礼の義務」はポトラッチに特徴的なもので、ほぼ同格の二者の間でポトラッチが行われると、互いに相手より優位に立とうとすれば、送ってもらった以上のものを返し、相手はさらにそれ以上のものを返し、贈与合戦の様相を呈してくる。最後は、貴重な品を相手の見ている前で破壊し、相手も同等以上の品を破壊するといった、蕩尽合戦にまで行きつく。後からアメリカ大陸にやって来た資本主義に馴染んだ白人から見れば、ポトラッチは悪しき浪費に見えたことは想像に難くない。カナダ政府もアメリカ政府も19世紀の後半にはポトラッチを禁止したことからもそれが分かる。

しかし、貨幣経済以前の社会では、ポトラッチは財の交換や再配分という意味合いもあったことは間違いない。モースは返礼の義務があることを強調しているが、贈与に対する返礼とは、贈与品と返礼品が同じものでなければ、結果的に物々交換に当たり、お互いに必要な品を手に入れる方途であったはずだ。また贈与品と返礼品の価値に、社会的地位に応じた差があれば、ポトラッチは部族間あるいは個人間の財の平準化に寄与したに違いない。

人類史において、今日食べる以上の食糧が備蓄できるようになると、部族間であるいは個人間で、貧富の差が開いてくるのは避けがたい。ある程度平準化するシステムがなければ、行き着くところは極端な独裁政治になることは世界史が教える教訓である。現代になり、民主主義下の国家では、累進課税あるいは相続税といった形で集めた税金を福祉に注ぎ込んで、富の再配分を行ってきた。しかし、ここに来て、グローバル・キャピタリズムは富の二極化を拡大する方向にアクセルを踏んでいるのは憂慮すべき反動だと思う。

貨幣経済以前の社会で、ポトラッチのように、贈与を沢山すればするほど社会的地位が上がるというシステムは、過度な独裁への移行を阻止するうえで、大きな役割を果たしたに違いない。現代社会では、惜しげもなく贈与を行う人は私的には慕われるかもしれないが、一般的には、贈与とは無関係に金持ちと貧乏人を比較すれば、前者の方が社会的地位は高いだろう。貨幣で物を買うということは、物を売って儲かる限りにおいて、買う人から売る人へ贈与が行われたということに等しい。大金持ちは潜在的贈与力が高いのである。

贈与する人と贈与される人の間で権力関係が発生するのは、人類史の始まりと軌を一にしているに違いない。腹が減って死にそうな時に、誰かが食物を恵んでくれれば、思わず「有難う」と言う感謝の言葉を発したくなるが、感謝の言葉もまた権力関係を内包している。

image by: Shutterstock.com

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