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政府のカネで作った自民プロパガンダ映画『Fukushima 50』が歪曲する真実

3月12日、日本テレビ系列の「金曜ロードSHOW!」で地上波初放送となる映画『Fukushima 50』。東日本大震災により全電源を喪失した福島第一原発内での人間ドラマを描いた佳作との評価もありますが、同時に、娯楽作品が政治的意図のもと真実をねじ曲げてしまう「危うさ」を指摘する声もあがっています。今回のメルマガ『国家権力&メディア一刀両断』では元全国紙社会部記者の新 恭さんが、原作者の意図や当作品の成り立ち等の裏側を紹介しつつ、その「危うさ」の構造を分析。さらに、原作者の門田隆将氏が3月11日にビジネス系ニュースサイトに緊急寄稿した記事に対する「違和感」を記しています。

映画『Fukushima 50』に潜む政治的意図

福島第一原発で起きた未曾有の事故は、歴代政府と電力会社が、巨大地震・津波の可能性があるのを無視し、なんら対策を講じていなかったことによる人災である。矛盾だらけの原子力政策が招いた悲劇といってもいい。

この事故を語るとき、そうした大きな視点は欠かせない。

ただそれは、あの時原発の施設内にいた東電社員らに想いを馳せた作家が、多くの証言をもとに、大量の放射能を浴びながら苦闘する彼らの姿を描くのを否定するものではない。彼らが自分たちの身を守るために逃げ出していたら、事態はもっと過酷だっただろう。

3月12日、日本テレビ系「金曜ロードSHOW!」で放映される映画『Fukushima 50』は、電源を失いメルトダウンした原発施設内で、どんな人間ドラマが展開したのかを見せてくれる。

原作のノンフィクション『死の淵を見た男』を書いた門田隆将氏は、「おわりに」のなかで、こう書いている。

太平洋戦争の主力であり、200万人を超える戦死者を出した大正生まれの人々を、私は「他人のために生きた世代」と捉え、それと比較して現代の日本人の傾向を「自分のためだけに生きる世代」として、論評してきた。しかし、今回の不幸な原発事故は、はからずも現代の日本人も、かつての日本人と同様の使命感と責任感を持ち、命を賭けてでも、毅然と物事に対処していくことを教えてくれた。

戦争をした世代と同じ使命感を原発で苦闘した人々に見たという。誰かの考え方と瓜二つなのに気づいた人もいるのではないだろうか。大下英治氏の『安倍晋三と岸信介』という本に、安倍晋三前首相へのインタビューが収められている。そのなかで、安倍氏はこう語る。

「教育現場では、国のために命を懸けるなんてことは馬鹿なやつがすることだと言う教師もいるわけです。…得になること、利益になることだけをやりなさいと教えるわけです」

「福島第一の原発事故でも、自衛隊員や警察官や消防隊員、現地の東京電力や関連企業の社員たちは、事態をコントロールしようと被爆を覚悟しながらも、必死に頑張っていました。多くの日本人は彼らの姿を見て感動しました。それは彼らが自らの命を懸けたからです」

教育勅語を今の小学校教育に蘇らせようと目論んだことのある安倍氏らしい見方である。

「感動的な人間ドラマ」に覆い隠される真実

門田氏がこの本を書き上げたのは2012年11月。それから約7年後に映画『Fukushima 50』が完成し、20年3月、劇場公開された。奇しくも、安倍政権の長い年月と映画制作にかかった期間が重なっている。

映画は原作にほぼ忠実に展開する。のちに食道癌で亡くなる吉田昌郎所長のもと、全電源喪失の原発施設内で、被曝の恐怖に怯えながら、最悪の事態を防ぐための作業を続けた人々。豪華俳優陣が熱演し、映像にも迫力がある。

ただ、この映画ははたして、感動的な人間ドラマで済ませてよかったのか、という疑問が筆者には残った。

当然のことながら、福島第一原発の事故はまだ終わっていない。溶け落ちた燃料の固ったデブリにはいまだ注水が続き、汚染水は増え続けている。避難したまま我が家に帰れない人々が4万人以上もいる。

映画は、「俺たちは自然の力をなめていたんだ。10メートルをこえる津波は来ないと思い込んでいた」と悔いる吉田所長の声でラストに向かうが、そこにあるのは、あくまで原発存続を前提とした作者の思いだ。ドイツがフクシマを見て判断したように、原発そのものがもはや不要であるという議論は置き去りにされている。

娯楽第一の商業映画であり、仕方ない面もあるだろう。シンプルに感動できれば、それでいいのかもしれない。だが、釈然としない点がいくつもある。

たとえば当時の菅直人首相の描き方はどうか。映画では菅という名前は出てこない。「総理」だ。終始、現場で頑張る東電社員らの足を引っ張る存在だ。全ての電源を失った福島第一原発に総理がヘリコプターで乗り込む前後を描いたシーンがある。

映画版は「アベ・スガ政権に都合がいい作り話」

稼働中だった1、2、3号機はモーターをまわせなくなって、冷却水がストップ、蒸気だけが発生し続けていた。水の上に顔を出したウラン燃料が溶け出し、格納容器内の圧力は限界に近づいていた。格納容器の気体を外に逃して圧を下げるベントが必要だった。

東電から説明を受けた総理はベントの指示を出したが、いつまで経ってもベントが始まらない。「なんでやらない」と東電の担当者に聞いても要領を得ない。自分が現場で直接聞くしかないと、総理は決断した。

東電本店から「総理がそちらへ視察に行きます」とテレビ会議で連絡を受けた吉田所長は「そんな余裕はない」「こっちはそれどころじゃない」と断るが、本店は「決定事項です」とにべもない。

問題はこの後だ。「とりあえず、ベントは総理の視察まで待てというわけですね」と吉田所長が問い、本店は押し黙る。

一方、総理は「なぜベントを早くやらない」と怒鳴りちらしながら現場に到着し、初めて吉田所長と会議室で対面する。総理が「早くベントをしてくれ」と言うと、吉田所長は「もちろんです。決死隊をつくってやってます」と答える。別の場面では作業員たちが「総理はまだ帰らないのか」などと話し合っている。

ベントが早くできなかったのは、電動弁が使えないため、高線量のなか、手動で弁を開こうとしていたからである。総理が官邸を離れたことには問題があっても、総理が来たからベントが遅れたということではない。むろん、ベントで放射線物質が排出されるため、周辺住民が避難し終えるまでの時間も必要だ。

1号機と3号機はなんとかベントに成功した。しかし、2号機は、格納容器の中が水蒸気でいっぱいになり、圧力が大爆発寸前まで高まった。

吉田所長は、格納容器内の圧力が設計基準の2倍をこえた3月15日の時点で、大爆発を覚悟した。のちに「東日本壊滅が脳裏に浮かんだ」と証言している。

その状況下、「東電が撤退する」という情報が官邸に飛び込んできた。原発を放棄した場合、避難対象は半径250キロ、人口約5,000万だと官僚が試算を示す。戦慄した総理は、東電本店2階の非常災害対策室に乗り込み、大声を張り上げる。

「撤退などはありえない。命がけでがんばれ。撤退したら東電は100%つぶれる。逃げてみたって逃げきれないぞ」。

総理の姿を、テレビ会議のモニターごしに見つめる福島第一の所員たち。1人がつぶやく。「何言ってんだこいつ」。そして次々と声が上がる。「誰が逃げるってんだ」「ふざけるな」。

吉田所長は、テレビ会議のカメラに背を向けて、ズボンを下ろし、パンツを出してシャツを入れなおした。本店でモニター画面のほうを向いている総理に尻を見せるかっこうだ。

このシーンについて、門田氏は「命をかけて事態に対処している者たちに、一国の総理が『命がけでやれ!』と言い放ったのである」と総理に批判的だが、まだしも原作には菅首相の言い分や、東電の説明不足を指摘する班目春樹原子力安全委員長の証言が、抜かりなく記されている。

事実はこうだ。「撤退情報」は枝野官房長官、海江田経産相が東電の清水正孝社長から受けた電話連絡でもたらされた。その内容は「今後ますます事態が悪化する場合は、退避を考えている」というものだった。両大臣はこれを「全員撤退」と受け取ったが、のちに「制御に必要な人間を除いて」という言葉が足りなかったための行き違いとわかった。原作を読めばこれが分かる。

しかし、総理側の視点を欠いた映画から伝わってくるのは、決死の作業を続ける者に向かい「命がけでやれ」と重ねて圧力を加える総理の悪印象ばかりである。

撤退騒動のもとになった2号機は結局、最悪の事態を免れた。水蒸気がどこからか抜けていたのだ。格納容器の一部が脆弱な、いわば欠陥機であったことが奇跡を呼び込んだ。

「事故の収束」を暗示する映画のエンディング

映画は、2号機の圧力が下がったことを喜ぶ現場の人々、官邸や東電本店の安堵した様子を映し出し、米軍のトモダチ作戦、そして原作にはなかった吉田所長の葬儀(2013年)シーンにつなげて、静かなエンディングとなる。まるで、事故が収束したかのような錯覚を覚える。

知っておくべき『Fukushima 50』と安倍前首相の関係

豪華俳優陣が熱演するドラマに水を差すようだが、日本テレビで映画が放映されるにあたり、あえて疑問を呈したい。

原作者が言うように、戦争世代と同じ使命感で原発の職員らがその場にとどまったのだろうか。安倍晋三氏が言うように、戦後の教育方針にはない精神が彼らに息づいていたのだろうか。

そうではあるまい。人間として、最後までフェアでありたい、職責を全うしたいという本然的な倫理観が彼らを突き動かしたのである。真っ暗で何もわからず、放射線は容赦なく命を脅かす。そんな状況のもとで、何が国家だ、何が戦争だ。イデオロギーめいたものではなく、人としてのありようだけが、そこには存在しているのだ。

この映画の成り立ちを考えるため、客観的な事実をあげておく。

映画のエグゼクティブプロデューサー、井上伸一郎氏(株式会社KADOKAWA副社長)が、昨年3月、ネットニュースのインタビューで語ったところによると、もともとの企画者は俳優の津川雅彦氏(故人)であり、角川歴彦会長に話を持ち込んできた。角川会長から「これを映画化できないか」と、門田氏の原作を手渡されたのが2015年ごろだという。

津川氏といえば、熱烈な安倍晋三応援団の1人だった。2012年9月に発足した「安倍晋三総理大臣を求める民間人有志の会」で発起人、2015年10月に発足した安倍首相直轄の有識者会議「『日本の美』総合プロジェクト懇談会」では座長をつとめた。

津川氏は『Fukushima 50』の完成を見届けることなく、亡くなったが、この映画にはしっかりと政府のカネがついた。文化庁文化芸術振興費補助金(映画創造活動支援事業)である。いわば、安倍政権ご推奨の作品というわけだ。

原作者の門田氏は原発に残って苦闘した人々を、戦争をした世代と同じ使命感を持つと見て感激し、作品にした。それは作家の自由だ。しかし一方で、『Fukushima 50』は歴史的重大事を娯楽映画にする場合の危うさを浮き彫りにした。英雄と悪人の対立構図をつくるためか、怒鳴りちらして邪魔をする総理のイメージが突出し、かえって問題の矮小化につながってしまった面がある。むろん、原発再稼働をめざすアベ・スガ政権にとってはそのほうが都合がいいのかもしれないが…。

首をひねりたくなる門田氏「緊急寄稿記事」の中身

さて門田氏は3月11日、映画『Fukushima50』原作者が語る、という緊急寄稿をダイヤモンドオンラインにしている。

映画『Fukushima50』原作者が語る、「震災10年」で心に刻みたいこと(門田隆将)

そのなかで、東電と国に賠償を命じた前橋地裁判決(2017年3月17日)のお粗末さを指摘しているのだが、首をひねりたくなるのは以下のような判決の解釈である。

前橋地裁の判決は、2002年7月に文部科学省の地震調査研究推進本部が打ち出した「三陸沖から房総沖の海溝沿いのどこでもM8クラスの地震が発生する可能性がある」という見解を根拠とし、そこに20メートルの巨大防波堤を建設しておけば、東電も、国も、「責任を果たした」と言いたいのだ。そう門田氏は書いている。

ほんとうだろうか。前橋地裁判決の本意は、地震調査研究推進本部の知見をもとに想定津波の計算をすることが可能であり、非常用電源設備の位置をこえる津波にそなえて、配電盤や非常用ディーゼル発電機を建屋の上階に移設するなどの対策を講じておれば、全電源喪失の事態は避けられた、というものだったはずである。なにも、20メートルの巨大防波堤をはりめぐらせるなどという大がかりなことではない。

門田氏は「あの未曽有の大津波について子どもじみた、事実に基づかない話がまかり通っていた」と書き、そのお粗末な実例として前橋地裁判決をあげた。しかし筆者には、門田氏のこの記事こそ事実をゆがめているように思えてならない。

image by: Shutterstock.com

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