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入学式も卒業式もムダ。3月4月すべての儀式が日本人を不幸にする

3月4月の日本では、卒業式や入学・入社式等々多くの行事が行われますが、それらはすべて「ムダな儀式」と言い切ってしまって間違いないようです。今回のメルマガ『冷泉彰彦のプリンストン通信』では米国在住作家の冷泉彰彦さんが、前掲の行事を「オワコン」と一刀両断。その上で、それらの儀式を無意味と判断せざるを得ない理由を、冷静な筆致で明らかにしています。

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オワコンばかり、3月4月のイベントは全面見直しが必要

アメリカで暮らしていると、3月4月が忙しいシーズンという感覚はありません。学校の学年替わりは秋ですし、企業の決算は12月が普通なので年度や学年の切れ目ということではないからです。では、アメリカの企業は12月末から1月は繁忙期かというと、そんなことはありません。多くの人が休暇を取るバケーションシーズンだったりします。それから、定期的な人事異動とか転勤という制度に関しては、アメリカの場合は皆無です。学校に関しても卒業式は盛大ですが、入学式はありません。

ということで、アメリカの場合は全く比較にならないわけですが、そんな「静かな日常」である3月4月に慣れてしまうと、日本の忙しいこの時期のことが遠く思われます。個人的には懐かしさもありますが、冷静に考えてみると年度替わり、学年替わりだからといって、やたらに忙しく行事や儀式を行う必要があるのか、かなり疑問だという感じもしていました。

そんな中で、コロナ禍ということもあり、儀式やイベントを対面で行うことを最小限にすることが求められて来ました。そうした「新しい日常」の観点を加えて考えてみると、改めて日本の3月4月に行われるイベントの「意味」について、疑問がどんどん湧いてくるのを感じます。と言いますか、この時期の「季節的な儀式、イベント」のほとんどは無意味であり、ハッキリ申し上げて「オワコン」ではないかとも思えるのです。

もしかすると、この3月4月のイベント類を徹底見直しすることで、先進国中最低と言われる日本の生産性とか幸福度といったものを回復できるかもしれない、そんな思いもしています。

まず、卒業式です。小学校などは良いとしても、日本の中学以上の卒業式というのは、とても妙だと思います。何かを完結したとか、属していた集団から次のレベルへ羽ばたくのを祝うというのは、基本的には悪いことではありません。ですが、その儀式に意味があるのは、ギリギリまで頑張って成果を挙げたとか、最高学年として、存在感を発揮したというのがあってこそだと思うのです。

ところが、日本の中学、高校、大学の場合はこのケジメというのがありません。卒業式は3月末なのに、1月ぐらいから学生は学校に来なくなり、学生生活がどんどんフェイドアウトして行くわけです。どうしてかというと、入試があるからで、高校入試は2月だとすると中3の生徒はその前で事実上の中学生活は終わりになります。部活などはもっと前に引退です。

高校生の場合はもっと徹底していて、1月のセンター試験の前、12月の終わり頃から事実上の高校生活はファイドアウトです。部活に至っては、ガチな体育会で3年の夏、受験校だと2年の終わりで引退などという「全くしまらない」終わり方をします。大学もそうで、最後は就活があり、内定が決まると拘束だとかインターンだとかで、結局のところは学生生活は3年の後半ぐらいからフェードアウトして行くだけです。

ですから、多くの場合に卒業式というのは「お別れ」であると同時に「クラスメイトとは久しぶりの再会」であったりするわけです。何ともマヌケな話としか言いようがありません。

どうしてこうなるのかというと、結局は終身雇用の企業や官庁というネバネバした共同体の一員に入って、その正規雇用という「階層」に入るのが人生の目的という悪しき考え方が残っているからです。大学は就職のため、高校は大学に受かるため、中学は高校に受かるためと、ドミノ式にそれぞれの段階の教育は、中身を骨抜きにされて、意味を薄められてしまうからです。

儀式の中で変なのは、卒業式の来賓という存在です。卒業式は卒業生の成果を評価してそれを讚えるモノだと思うのですが、来賓という名前で政治家とか教委とかが上座に座っているというのは奇々怪々です。それだけではりません。来賓なら来賓らしく、面白いスピーチ、あるいは立派なスピーチをすればいいのに、だいたいの場合は「型通りの」何の面白みもないスピーチを聞かされるわけです。主役は卒業生であり、卒業生にとって思い出に残るような演出を考えるべきです。

今でも4月を待てずに、3月中から新入社員を拘束する企業があり、卒業式に行くとか行かないとかで揉めるケースも残っているようですが、企業に「なめられる」ような無意味な卒業式をやっていることにも問題があるのではと思います。

入学式も良く分かりません。共同体に迎えるイニシエーションという意味では、これも小学校では意味があると思いますが、中学の場合は野蛮な先輩後輩カルチャーを押し付けるというバカバカしい悪習を絶つことなく新中1を迎えるということが、既に完全に時代錯誤です。また、大学の場合はそれこそ事務的なオリエンテーションでいいはずです。

特に最低最悪なのは東大の入学式です。ここ数年は、総長などが「自分で考える」ようになどと新入生に説教をするのが恒例になっていますが、そんな偉そうな説教をする前に「自分で考える人物でないと入れない」ように入試を徹底改革すべきです。

脳内単純作業の訓練で入れてしまう入試をやりながら、「自分で考えろ」などと説教するのは笑止千万です。また東大の入学式に着飾って出てくる親というのは、程度の差こそあれ「毒」を持っているわけで、そういう毒にプッシュされないと入れないという風潮を切って捨てるためにも、家族の入場は禁止すべきでしょう。

大学の入学式以上に意味不明なのが、企業の入社式です。最悪なのが、社長のスピーチですが、昨今の定番というのは2種類あります。1つは、「諸君にはわが社を変革してもらいたい」というものです。例えば生産性とか、働き方、多様性、グローバル化、IT化などで、社長が新しい世代に期待するというのは、分からないではありません。

ですが、本当に変革してもらいたいのなら新入社員にいきなり「21世紀の世代代表」として権限を与えるのが筋です。そうではなくて、入社式が終わって配属されると現場は抵抗勢力だらけであり、「社長は立派なことを言っているけど、現実は地をはうようなもの」だから「まず下働きから叩き上げろ」といって、ブラックな勤務を押し付けられるわけです。そう考えると、社長スピーチによくある「諸君に変革の旗手になってもらいたい」などというのがナンセンスだということが分かります。

このスピーチですが、良く考えて翻訳すると「社長の自分は変革したいが、今の会社は抵抗勢力だらけなので、今のところできていない」という意味に受け止めるべきでしょう。さて、2番目の定番はスピーチの中で社長が「色々あったがわが社は大丈夫だ」と述べるというパターンです。これも同じことで、本当に大丈夫なら、わざわざ大丈夫とは言わないわけですから「大丈夫ではない」と受け止めるべきでしょう。

3月4月をやたらに忙しくしている要素として、転勤を伴う人事異動があります。結局この制度をやり続けて、幸福感も、生産性も最悪になったのですから、もう止める時期でしょう。遅すぎるぐらいです。

まず、ある専門職として高いスキルが身に付いた人を、そのポジションから引きはがして、全く別の分野に異動するとします。そうすると、その人のスキル形成にかかった投資はパーになります。同時に、その後任には、そのポジションの専門スキルはゼロの人を持ってくるとなると、その人がスキルを獲得するまでコストがかかります。

そうすると、異動するたびに企業としてはコストがかかり、同時に本人への負荷も大きなものがあります。それ以前の問題として、こうした経営判断というのは、

「複数の専門性を経験することで広い視野で判断できる人が育つ」
「企業独自の文化や価値観を知った人が育つ」

というメリットがあると信じられているからですが、この2つの「メリット」は常に「デメリット」と裏腹であるわけです。何よりも、その分野のプロではなく、色々な職種をグルグル回ってきた人が管理職として権限を持つわけですから、自分だけでは判断できず非効率です。また企業独自の判断基準というのは、良い方向の個性だけでなく、企業の抱えたブラック性などが温存され、リスクが雪だるま式になる可能性もあります。

加えて、家族のいる人の場合は、セットで動けない中で、勤務地異動を強制するというのは、完全に人道に反するわけです。単身赴任という制度も一刻も早く終わらせるべきです。

とにかく、こうした一連のバカバカしさというのは、日本の学校や職場が「メンバーシップ」型、あるいは「ネバネバした共同体」としてのカルチャーを引きずっているからです。そして、そのことが、生産性の低下、幸福度の低下、そして国際競争力の喪失を招いています。結果的にその集団全体を不幸にしているわけです。

まず教育です。学校は常に「入試で基礎スキルを足切り」して行き、下の学校の最大の目標は「上の学校の入試(もしくは就職試験)に受かるため」という位置づけが、まずオワコンです。そうではなくて、高校なら高校の履修内容で、その成績を評価することで大学に行けるし、大学はしっかり学んで、その成果により学位が出る、その学位の質で就職が決まる、世界の常識はそうなっています。

その結果として、金融工学を学んだ学生、バイオを学んだ学生、税務会計を学んだ学生はそのスキルを評価されて、専門職としての雇用を得ます。そして、大学で学んだことが即戦力になるべきです。

また、そのような専門性の上に職歴が乗っかれば、労働市場で競争力が出ますから、仕事のレベルアップを狙って転職し、そこで給与も良い条件を退き出すことができます。その全体において、個人は採用する企業と対等であり、社畜として転勤に甘んじたり、単身赴任したりということもありません。

そして、そうした方法の方が、全体が成長し、個人や家族の満足度や幸福度は上がり、上がらないまでも理不尽な屈折はなく、そして社会も企業も国も産業も、変化しながら持続することができます。

日本の場合は、終身雇用の非専門職によるネバネバした共同体が、企業の意思決定勢力であり同時に守旧派勢力として君臨しており、その貴族的であり同時に奴隷的でもある特権階級に入るための「受験競争」があるという制度が長く続いてきました。

その特徴を象徴するものが、この3月から4月に共同体を出たり入ったりする際の儀式であり、その一連の儀式のナンセンスが、この共同体システムの崩壊を示しているわけです。にもかかわらず、実は崩壊しているにも関わらずそのゾンビのような実態に気づくことなく、相変わらず訓示をしたり、辞令交付をしたり、コロナ禍の下でも歓送迎会を深夜までやったりしているわけです。

とにかく、この年度替わりの忙しさの中に、とりわけ卒業、入学、入社といった共同体がらみの出入りの儀式の中に、本当に人を感動させるコンテンツが入っているのか、その儀式の意味合いが本当に経済や社会を発展させるものなのか、コロナ禍ということも併せて考えてみる時期だと思うのです。(メルマガ『冷泉彰彦のプリンストン通信』より一部抜粋)

image by: Shutterstock.com

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東京都生まれ。東京大学文学部卒業、コロンビア大学大学院卒。1993年より米国在住。メールマガジンJMM(村上龍編集長)に「FROM911、USAレポート」を寄稿。米国と日本を行き来する冷泉さんだからこその鋭い記事が人気のメルマガは第1~第4火曜日配信。

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