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世界で最初にエレキを手にした男・寺内タケシの「豪快すぎる父親」

「エレキの神様」の異名で幅広い世代に人気を誇り、ミュージシャンたちから圧倒的な尊敬を集めていた寺内タケシさんが6月18日、82年の生涯に幕を下ろしました。今回のメルマガ『秘蔵! 昭和のスター・有名人が語る「私からお父さんお母さんへの手紙」』ではライターの根岸康雄さんが、寺内さんが生前語った父母とのエピソードの数々を紹介。厳しくも面倒見のいい親分肌として知られた寺内さんですが、その人間性を形作ったのは豪快な両親との濃密な日々だったようです。

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寺内タケシ「140人分の楽器、東京までの140人分の切符、全部親父のツケだ」

彼の原稿を一読して担当の編集者がのけ反ったことを思い出す。人間として、バンドリーダーとしてスケールが違っていた。器の大きい人である。振り返ると、一昔前は彼のように“仲間のために”損得を考えずに行動する人が、周りに必ずいたような気がしている。今はシステムが優先だが、当時は人間が優先される時代だったのだろう。(根岸康雄)

「寺内です」といえばどこでもツケがきいた

親父は戦前から、派手に事業展開をする男だった。電気、建設、映画館、不動産と、いろいろと手を広げた。また、親父は土浦市の市議会議員を8期務め、市議会議長を3期務めた。

親父の事業展開が特にすごかったのは終戦直後だった。「ワールドランプ」という親父の会社で、いち早くクリスマスツリーの豆電球セットを3,000個作り、GHQのマッカーサー司令部に売り込みに行ったのだ。

「お前ね、英語はしゃべれない方がいいぞ」

それは親父はよく口にした言葉だが、司令部の人間に親父は手真似で豆電球1セットで18円50銭と伝えたそうだ。ところが、先方が振り込んできた金額を見て、親父は頬っぺたをつねったという。

当時の大卒の初任給が100円ほどだった時代に、なんと豆電球1セットにつき185円を入金してきたというんだ。さあ、それからしばらくは横浜から、多い時は1か月に船で10杯近く豆電球セットを輸出をして、大変な財産を手に入れることになる。

昭和20年代前半の復興期に、今一流として社名が通っている電機メーカー数社を親父は下請けとして使い、各電機メーカーに利益をもたらした。その意味で親父は、戦後の電機業界復興の父でもあった。

僕は高校を卒業し、土浦を離れるまで、金を使った思い出がほとんどない。

「寺内です」

そう言えば、本屋に行ってもレストランで食事をしてもツケがきいた。お金はいらない。

小学校に入る前、近くの山で近所の悪ガキと柿や栗をかっぱらって、見張り番のような大人に捕まったことがある。

「名前を言え!」
「祇園町の寺内です」

そう応えると、今まで怖い顔をして怒っていた大人が、

「誠に失礼しました。いくらでも持っていってください」

そこはうちの山だったんだね。一事が万事、そんな感じじゃスリルがないし、面白くない。そんな思いを抱いきはじめた頃にギターと出会った。

戦時中だった、僕が5歳の時に買ったばかりのギターを残して、兄貴が召集されて戦争に行くことになり、僕は兄貴のギターを手に入れた。

戦時中は歌舞音曲の類はほとんど禁止で、ギターを目にするのは初めてだった。どうやって弾くのかも分からない。

オフクロは、幼い頃から芸事に打ち込んできた人で、自分の流派を挙げる小唄の家元だから。三味線の音色が常に家の中に響いていた。三味線の弦は3本、ギターは6本、さほど変わりがない、これはオフクロに弾き方を教えてもらおうと。

「タケシ、芸事をやるんなら、弱音を吐かず最後までやりとおしなさい」

ギターの弾き方を聞いた時、オフクロに言われたその言葉を覚えている。

いったん教えるとなったら、それまで優しかったオフクロが鬼に変わった。

オフクロの三味線の音色に真似てギターの弦を指で押さえたのだが、当時の弦は鉄線だし、弦を押さえているうちに、指の皮は破れて最後は指の白い骨まで見えるようになり痛くて弾けない。泣きじゃくっていると、

「塩壺を持ってきなさい」

オフクロはお手伝いさんに言いつけ、水で練った塩壺の中に指をズボッとつけられた。

「痛ッ!!」
「最初おふくろに弱音を吐くなと言ったはずでしょ!」

と叩かれたけど、芸事に長けたオフクロはこんな時の対処法をよく知っていた。この“塩壺治療”は威力があった。3日で指の傷は治ったね。

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「気合いが入ってないから音が小さい」オフクロを見返そうと

三味線を弾く要領でオフクロに教えてもらっているうちに、夕焼け小焼けの赤とんぼとか、メロディーが弾けるようになり、ギターが面白くなってくる。

オフクロが弾くのは人間国宝が作ったような日本の古典芸能に基づいた三味線だが、錆びた弦の弾く僕のギターの音よりも、オフクロの三味線の方がはるかに大きな音が出る。

「お前は気合いが入ってないから音が小さい」

オフクロにそう言われるのが悔しくて、何かうまい手はないか。

5歳の子供ながらに思いついたのが、電話の受話器だ。当時、うちには電話器が何台もあった。受話器の中には音を増幅させるコイルが組み込まれている。それを取り出して何個かつないで、キャラメル形のマイクを作った。

戦時中のことだ。当時、3階建てのうちの屋上には、空襲警報を鳴らすスピーカーが設置してあった。夜中に自家製キャラメル型のマイクをそのスピーカーにつなげて、マイクの前でギターを試してみた。すると、「ギャー!」という感じで、僕の弾くギターのメロディーが、ヘビメタみたいな感じで辺りに響きまくったんだ。

「これでお母さんに勝ったぞ」

僕は嬉しくて調子に乗って夢中で演奏していた。ところが戦時中のことだ。明け方、特高警察と憲兵と、当時はだれもが怖がった連中が家に駆けつけてきた。

「この非常事態になんてことをするんだ!」

親父が警察署に引っ張られ、背中を竹刀でブッ叩かれて帰ってきた。

「子供が命がけで芸事やって、それで親が警察に引っ張られるんなら本望だわさ」

オフクロは涼しい顔でそう言っていたのを覚えている。その一件を見ても、親父よりもオフクロのほうが強いことを物語っていた。

うちは建築屋もやっていたから、大工の棟梁に頼んでギターを作ってもらい、電気屋の職人に頼んでギターにマイクを取り付けてもらった。僕が戦後間がない9歳のときに手にしたものは、おそらく世界で最初のエレキギターだったに違いない。

NHKのコンクールで『禁じられた遊び』をギターで弾き、優勝したのは12歳の時だった。ギターを弾いている時が何よりも楽しい、だから勉強なんか出来るはずがない。芸事好きのオフクロはそんな僕に理解があって、学校の成績が悪くても小言を口に出すことはなかったが、小学3年の時の成績が学年で一番びりだということが親父の知れるところとなって。

「いい加減にしろ!ガラクタばかりいじって、大バカモノ!!」

昔の大きな玉のソロバンでぶん殴られた。

「でもギターを弾いてるのが面白いんだから」とかなんとか言い返したら、「出て行け!」と。

小学3年のそれが、それが最初の勘当だった。

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 高校に行かず、ギターを弾こうとしたら親父が先回りをして…

算数というのは要するに経理だろう。親父を見ていると、家のそばにある会社の経理部に行けば、しっかりと計算をする人間がいる。国語なんかやらなくても弁理士も代書屋もいるじゃないか。英語はしゃべれない方がいいと親父は言っていた。

──なぜ勉強しなきゃいけないんだ。

勉強する意味が分からなかったから、小学校も中学時代も成績は学年でビリ。

「この成績じゃ高校に入れない」

先生がそう言うもんから、

──高校へ行くのはやめた。ずっとギターを弾いてよう。

そう思っていたら、親父の方が先回りをした。

土浦にあった予科練の練兵所の跡地の3万坪の土地を国から払い下げてもらい、そこに高校を作り、それを県に寄付した。親父が創立した学校なのだから、裏口ではない。僕は正面から堂々と高校に入学をした。

高校時代はギターと同時にマンドリンにも興味を持って。高校にマンドリンクラブを作り、講堂を練習場にして。140人の部員の楽器は、楽器店から親父のツケで買ってきて。猛烈な練習を積んだ。NHKの楽器コンクールに出場して3年続けて優勝した。

NHKのコンクールで部員たちと東京に行く時も土浦の駅で、

「寺内ですけど、上野まで140人分の往復切符をください」

そう言えば、これまたツケで切符が買えた。

「タケシ、もう楽器はやめろ、楽器とは縁を切れ」

親父に引導を渡されたのは高校を卒業し、親父の知り合いの紹介で関東学院に入学した時だった。

親父は僕を政治家にしたかったらしい。親父は関東学院の近くに家を建ててくれ、ばあやも置いてくれたのだけれど。横須賀の進駐軍のクラブのフルバンドで、僕がドラムを叩いている時に、客として来た親父に見つかった。

「分かっとるな」
「はっ、分かっています」

今度こそはまずいと思い家に帰る気をなくして、友達と飲み歩き10日ほどして親父が建ててくれた家に戻ると、家は跡形もなくなり更地になっていて、そこに「勘当」という札が刺さっていた。

──今度は本当に「勘当」だな……

あの2文字を目にした時、僕は“感動”したことを覚えている。

親父は僕が尻尾を巻いて帰って来ると思っていたようだ。でも、僕にだって意地がある。勘当されて仕送りはすべて途絶え金がなかったから、僕は演奏でお金を稼いだ。自然とプロでやることになったのだ。

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俺の時代はまず国を建て直さなければならなかった…

親父とオフクロが離婚したことを知ったのは大学を出てからだった。あれは芯の強いオフクロに決定的な証拠を握られたからじゃないか。親父が待合で芸者と一緒の布団にいるとこをオフクロに踏み込まれた。

「あれ?俺は何でここにいるんだ?さっぱりわからないな?教えてくれ」

最後まで親父はそうスッとぼけたそうだ。そんな親父を見てオフクロはプッと吹き出し、親父の意思とは関係なく、勝手に離婚させられちゃったらしい。

オフクロは小唄の家元だ。全国に1万人近いお弟子さんがいる。

お金に困っていた時に、下北沢のオフクロの稽古場に遊びに行った時のことだ。ロサンゼルスでギターの出物があるという話をした。

「いくらなの?」
「300万円だよ」
「買いなさい、楽器には糸目をつけるんじゃないよ」

そう言うと、オフクロはポンとキャッシュでお金をくれたことがあった。

大学を自力で卒業し、演奏活動を続けるうちに、オフクロよりも人間が甘い、親父の勘当はいつしか解けていた。

僕はギターの音が好きだ。

「音楽は、政治家が言えないメッセージを世界中の人たちに伝えることが出来るんだよ。だから、音楽も捨てたもんじゃないと思うけど」

そんなことをふと、親父の前でつぶやいたのは晩年のことだった。すると、

「俺の時代はまず、国を建て直さなければならなかった。歌舞音曲の類で国を立て直すことはできねえ、それをお前に言いたかったが、口足らずで伝えられなかった……」

親父のそんな言葉に接して。親父は僕に甘かったが、口を開けば音楽に反対ばかりしていた。だが、子供の頃にその話を聞いていたら、僕は本気で楽器を止め、別の世界を歩んでいたかもしれなかった……。

ふとそんな思いが脳裏をよぎった。

80歳を過ぎて、伊豆の温泉病院に入院した親父を見舞いに行くと、院長も一緒になって芸者を上げ、毎日ドンちゃん騒ぎをやらかしていた。

怖いはずの親父なのに、ふと思い出す親父はニコニコと笑っている。

そして、今もギターを弾くと必ず脳裏に浮かぶのは、着物を着て、シャッキっと背筋を伸ばしたオフクロの姿である。(ビッグコミックオリジナル2002年3月20日号掲載)

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image by: Shutterstock.com

根岸康雄 この著者の記事一覧

横浜市生まれ、人物専門のライターとして、これまで4000人以上の人物をインタビューし記事を執筆。芸能、スポーツ、政治家、文化人、市井の人ジャンルを問わない。これまでの主な著書は「子から親への手紙」「日本工場力」「万国家計簿博覧会」「ザ・にっぽん人」「生存者」「頭を下げかった男たち」「死ぬ準備」「おとむらい」「子から親への手紙」などがある。

 

このシリーズは約250名の有名人を網羅しています。既に亡くなられた方も多数おります。取材対象の方が語る自分の親のことはご本人のお人柄はもちろん、古き良き、そして忘れ去られつつある日本人の親子の関係を余すところなく語っています。

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【著者】 根岸康雄 【月額】 ¥385/月(税込) 初月無料 【発行周期】 毎月 第1木曜日・第2木曜日・第3木曜日・第4木曜日

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