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故・高島忠夫が生前に語った両親。「イエーイ!」な人生を送ったのは父だった

映画やミュージカルの俳優として活躍した後、テレビ番組の司会者として多くの長寿番組を担当し「イエーイ!」のフレーズで知られた高島忠夫さんが亡くなって6月26日で丸2年となり、三回忌を迎えました。今回のメルマガ『秘蔵! 昭和のスター・有名人が語る「私からお父さんお母さんへの手紙」』で、ライターの根岸康雄さんが紹介するのは、高島さんが生前語った自由な遊び人の父と、生真面目で恥ずかしがり屋の母のエピソードの数々。生前の高島さんのイメージそのままに、両親それぞれへの深い愛情が伝わってきます。

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高島忠夫/俳優「生涯定職に就かず、ノブオはんのように呑気で気楽な一生をすごせたらええなぁ」

テレビ局の楽屋で話を聞いた。「今日昼飯に玉付きのざるそばを食べたから調子がいい、8月に載るなら白い上着の方がいいですね」と、サッと上着を着替えた。神戸の山の手育ちで“ボン”と愛称で呼ばれる氏、笑顔と高い声、テンションの高い人だった。「終戦から間がないあの時期の混乱さはすごかった」そんな言葉に、戦中派と言われる人たちのアナーキーさを感じた。(根岸康雄)

「ノブオはん」生涯定職に就いたことがなかった親父

親父は生涯定職についたことがなかった。まあ、ボンボンもいいとこやったなぁ。先祖が神戸の御影の土地を買いだめして、「わしが子供ん時は阪神の御影駅から全部、自分の家の土地を踏んで帰れたんやで」とかなんとか、親父は言っていた。

そら、親父は僕よりずっと男前だったわ。「ノブオはんノブオはん」近所ではそう呼ばれていて。御影のあたりじゃ“ノブオはん”のように、一生安穏な生活を送れますようにと、子供に“信夫”と名付けた親が3人はおったというのやから。

親父はでかわいがられて育って、「信夫、おまえはここにいてわしの後を継げ」と、おじいさんが親父に言ったとか。おじいさんは借家をかなり持っていたけど、月末に借家をまわって家賃を集金してきても、親父はそれを持って阪神競馬場に行って全部すってしまう。オフクロは困っとった。

「主人がいつもバカなことをしています、すみません。ところで、今月の食費代をなんとか……」親父は働かないんだから月々の金は入ってこない。オフクロは生活費を捻出するためにおじいさんに頭を下げて。「あんな辛い思いをしたことないわ、家がお金持ちや言うても、左うちわの暮らしなんてしたことないで」オフクロは未だにそう言っている。

おまけに親父には女の人がいてさ。オフクロの話によると3人もおったそうや。「お父ちゃんは人が好いさかいにな、“信夫はん好きやー”言われると“そうかいそうかい”って、気をよくして女の人についていく。ホンマ、お父ちゃんはボンボンの典型や」それもオフクロの愚痴だ。

そういえば、小さい頃の記憶やけど、「ターぼん(忠夫)と、有馬温泉行ってくる」そうオフクロに言うて、別の女の人と旅館でお風呂に入った記憶があるな。そうか、あの時、僕は浮気のダシに使われたんだなぁ。

女の人のことで夫婦ゲンカになることもあった。すると親父は、「こんなケタクソ悪い家におられるかい!出ていく!」すると、それまで怒っていたオフクロは親父が浮気相手の女のとこに行かれると困るから、「出ていかんといて!」って。

子供の頃にそんな夫婦ゲンカを見ているから、僕は結婚しても妻以外の女性と浮気したことは一度もない。すると親父がまた、「ほら見てみい、おまえがのべつ幕なしに、わしのことをとんでもない亭主や言うさかいにな、忠夫はわしのようになったらあかんとよく働くし、女房も替えんでええ亭主になったやないか」なんて、オフク口にヘンな理屈をこねていた。

「私の一生は毎日が厄日やったわ」88歳になった今でもオフクロはよくそんなことを言うけど、毎日のように親父のことを懐かしそうに話している。夫婦のことは夫婦でしかわからんけど、いいケンカ相手だった、仲のいい夫婦だったんと違うかな。なんでも若い頃のオフクロは往年の名女優の小暮実千代にそっくりだったそうや。小暮実千代のファンだった親父がほれ、猛烈にアタックして恋愛結婚したって聞いたことがある。

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気ままに生きてる人やから、子供の扱いも気まぐれや。

仕事はしない、外に女の人を作ってオフクロを泣かせる、でも、僕がそんな親父に悪い感情を抱かなかった。それは、──親父のように一生を送れたら気楽でいいな。そんな思いが、僕の中にあったからで。

オフクロに似たのか、親父と違いマジメな僕は10日も仕事を休んでいるともうダメや。──こんな生活していて、ええんかいな……。そんな思いが湧き上がってくるのだが、親父と来た日には若い頃からずっと暇だったのやから。そら遊びの人生や。

ベベベーンと親父は琵琶も弾けた。尺八もうまかった。将棋も碁も好きで、歌もうまかったよ。人付き合いもよくて、「信夫はんとおったら、ホンマ楽しいわ」と、友だちから言われる人だった。よく友だちを家に呼んで宴会を開いていた。そんな時は僕がよく酒の肴にされたんや。

「忠夫!学校の試験の問題集を持ってこい!」酒の席に呼ばれ、親父にそう言われて。「この問題の答えをいうてみい」と。正解すると、「ほーら、うちの忠夫はホンマにかしこおまんねん」お客さんの前で自慢して。「まあ一杯飲め」って、中学生ぐらいになると親父たちの宴会の席でお酒を飲まされた。ところが出された問題を間違えると、「こいつ、ホンマにアホでんねん」とか、ボロクソに言われたもんや。気ままに生きてる人やから、子供の扱いも気まぐれや。あれは辛かったなぁ。

戦後は友だちが持っていたギターが欲しくて。オフクロは台所でいつも歌を口ずさんでいるような人やから、オフクロにねだるとギターを買ってやろうと。戦後は土地をずいぶん手放すことになったが、それでも借家の家賃は親父が勝手に持って行ってしまうから。ギターを手に入れるために、オフクロは嫁入りの時に持ってきた着物を都合してくれて。

ギターを手にした僕はすぐにジャズに夢中になった。入学した神戸一中が戦後に新制の県立神戸高校に替わると、進駐軍のキャンプを回ってジャズの演奏に忙しかった僕は、先生に呼び出された。「学校にも来んでジャズやってる生徒など、新制の神戸高校の名折れだ!」

先生のその言い方がシャクにさわった。「ほな、辞めまっさ、僕はジャズで食っていくんやから」と、僕は学校を中退して。あの時はオフクロも、僕にギターをあたえたことを後悔していた。「あー、忠夫を不良にしてしもうた。どないしょ……」ずいぶん悩んでいた様子だった。琵琶や尺八に凝っていた、親父みたい人間になったらどうしようと思ったの違うかな。

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サンドウィッチのハムみたいな人生を送った親父…。

その後、関西学院大に進んでもジャズを続けていたけど、僕の中でジャズではモノにならないだろうと、薄々わかってきた頃だった。僕も親父に似て、いい加減なとこもある。ある日、バンド仲間が集まるお汁粉屋のお姉ちゃんに、「ターぽん、あんたええ男やさかい、あんたが映画俳優にならなかったら誰がなるねん」そう言われてさ。僕はお汁粉屋の便所の鏡で、あらためて自分の顔をながめたんや。よくよく見るとピカーと光ったいい男が、鏡に映ってるじゃないの。

新東宝の第一期ニューフェイスに受かり、昭和26年に上京して、しばらくは月給が5千円だったから、実家から仕送りしてもらっていた。親父やオフクロも根が楽観的な人やから、あの頃はたぶん、息子がどのくらい偉うなってくれるか、楽しみにしてたんやないかな。

僕が親父たちにガンガン仕送りできるようになったのは、俳優をはじめて10年くらいたった頃やった。親父としてはおじいさんにもらった土地を全部売って、いよいよお金に困ってきた頃に、僕が上納金を差し出せるようになったわけや。振り返ると、親父はほんと、サンドウィッチのハムみたいな人生だなぁ。人生の前半はおじいさんからもらったサンドウィッチの上のパンに守られ、後半は下のパンのところを息子が差し出して。

「私、高島忠夫の父でんねん」万事、派手好きな親父はあちこちでそう言い回っていた。親父は僕より今でいうイケメンだ。「あっ、高島さんのお父さんですか」そんな話が盛り上がって、一度、映画出演の話が舞い込んできたことがあった。「わしが映画に出たらな、ターぼんどころやない、日本中で知らない人がいないくらい有名になるぞ!」なんて夢を見ていたけど結局、その話は流れてしまった。親父、残念だったね。

それに引きかえ、マジメなオフクロは取り越し苦労ばかりしていた。「忠夫は台詞を間違えるんじゃないか」、歌を唄えば、「歌詞を間違えるんやないか」目立つことが嫌いなオフクロは、僕が俳優として知られるようになってからは、一緒に歩くことも控えていた。

親父とオフクロの金婚式の時も、有馬温泉の高級旅館で、親戚を呼んで派手にパーとやろうと思っていたんや。ところが、2日ぐらい前になって、「やっぱりイヤや」オフクロはそう言い出した。「旅館で周りの人に、『あれが高島忠夫の母親か』言われるのがイヤや」と。「なにいうとるんや、ターぼんがわしたちのために、めでたい金婚式を用意してくれたのに」と、派手好きの親父はオフクロに向かって怒っていた。

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「親父は派手好きやったから、高嶋信夫の紅白歌合戦やぁ!」

親父の浮気、親父の放蕩、お金のやり繰り……、世間は関西でいう“ええしの息子”に嫁いだと見ていたが、オフクロの苦労は絶えんかったんや。そんなオフクロの労をねぎらう意味でも、僕は豪勢に祝ってあげようと思っていたんやけど。親孝行したかったんやけどね、それが中止になって僕はちょっと悲しかった…。

親父は器用貧乏というか、琵琶や尺八もうまかったけど、それを仕事にできるほどの腕前ではない。僕自身も未だ歴史に残るほどのミリオンセラーを出した歌手でもないし、映画史に残る不滅の名画に出演した俳優でもないわけで。そこは親父に似てしまったのだろうか。

年をとって病気になり入院しても、「わしは看護婦にモテてなー」なんて、どこまでもノー天気な親父やった。亡くなった時は、「ほんとは白い花だけで……」葬儀屋さんにそう言われたけど、棺の中に、「紅い花やオレンジや紫の花も入れたろやないか」って、僕は声を張り上げた。

「親父は派手好きやったから、高嶋信夫の紅白歌合戦やぁ!」とか大きな声で言ったら、親戚に怒られたけど。最後のお別れの挨拶の時だった。あんなに明るく振舞っていたのに、マイクの前に立ったら急に涙があふれて。しゃべれんようになってしまって。「あんたはかわいい子やなぁ……」そんな僕に声をかけてくれたオフクロの言葉が忘れられない。

親父は僕が出るテレビは必ず見てくれていて。「おまえはたいした役者やでぇ」と、いつも喜んでくれた。そんな親父の張りのある声がもう聞けない、そう思ったら涙があふれてきたんや。

今は僕が息子たちに「あの芝居、よかったよ」と声をかけると、息子たちはうれしそうな顔をする。親父はべベベーンと琵琶を弾いた。親父と僕と息子と、高島家はいわば芸能三代や。別に大スターにならなくたってええや。健康で芸能を続けられて、幸せな一生を送れればそれが一番だと、親父の人生を振り返って僕はそう思っている。(ビッグコミックオリジナル1996年8月20日号掲載)

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image by: キネマ旬報社 撮影者不明, Public domain, via Wikimedia Commons

根岸康雄 この著者の記事一覧

横浜市生まれ、人物専門のライターとして、これまで4000人以上の人物をインタビューし記事を執筆。芸能、スポーツ、政治家、文化人、市井の人ジャンルを問わない。これまでの主な著書は「子から親への手紙」「日本工場力」「万国家計簿博覧会」「ザ・にっぽん人」「生存者」「頭を下げかった男たち」「死ぬ準備」「おとむらい」「子から親への手紙」などがある。

 

このシリーズは約250名の有名人を網羅しています。既に亡くなられた方も多数おります。取材対象の方が語る自分の親のことはご本人のお人柄はもちろん、古き良き、そして忘れ去られつつある日本人の親子の関係を余すところなく語っています。

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【著者】 根岸康雄 【月額】 ¥385/月(税込) 初月無料 【発行周期】 毎月 第1木曜日・第2木曜日・第3木曜日・第4木曜日

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