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金メダリスト吉田秀彦が明かす「異様な雰囲気」を醸し出していた父親

今大会で五輪史上最多、9人もの金メダリストを生み出した日本柔道界ですが、そのうち3名が所属する企業チームの総監督を務めるのが、自身もバルセロナ五輪で金メダルを獲得した吉田秀彦氏。現役時代は圧倒的な強さを誇った吉田氏ですが、柔道を始めたきっかけは意外なものでした。今回のメルマガ『秘蔵! 昭和のスター・有名人が語る「私からお父さんお母さんへの手紙」』ではライターの根岸康雄さんが、吉田氏が語った父とのエピソードを紹介。さらに彼が両親にかけ続けているという、今も昔も変わらない言葉を明かしています。

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吉田秀彦/柔道家、格闘家:「親父との距離感は今も変わってない。僕は昔よりも親父としゃべりやすくなったが、親父の方は相変わらず、僕と話しづらそうな様子だ」

私は『吉田秀彦物語』という漫画原作を担当し、彼と周辺の柔道家と親しくした時期がある。世田谷にあった全寮制の柔道の私塾、講堂学舎。吉田秀彦、2年先輩の古賀稔彦、そして当時の講堂学舎の指導者で後に全日本柔道連盟のコーチに就任する吉村和郎は、絶妙なトリオであった。バルセロナ五輪での吉田と古賀の金メダルはお互いに相手を思いやる3人の想いの賜物という気がする。取材中、吉田秀彦のハードな練習を目のあたりにしたが、彼はいつもニコニコしていた。「辛いから笑ってないとやってられないんですよ」吉田は口元を崩してそう私に語った。2021年3月29日、53才で逝った古賀稔彦の告別式で弔辞に立った吉田秀彦は53秒間、言葉が出なかった。彼の想いを察するにはあまりある。父親に似て吉田は不器用でやさしい男だ。(根岸康雄)

異様な雰囲気を醸し出していた親父だった

建て替える前の家の駐車場の鉄骨は、親父が自分で溶接をした。親父が経営する小さな下請けの会社は、新日鐵名古屋製鉄所の仕事をしていた。自宅を事務所代わりに、オフクロが親父の会社の経理を見ていた。

言葉数が多くないオフクロは、出歩くのがあまり好きなほうではなかった。そして親父といえば怖かった。食事の時、肘を突いて食べていたりするとピシッと叩かれたが、それが怖いというのではなくて。

無口な親父だったのだ。僕と違い酒も飲まない。ただ押し黙っている姿は、どうにも話しづらい人だった。子供時代の親父を思うと、見るからにガンコ親父という感じの姿が目に浮かぶ。子供の目から見ると、一種異様な雰囲気を醸し出している親父だった。

家では「勉強しなさい」と、オフクロにうるさく言われた記憶があるが、僕は小さい頃から外で遊ぶのが大好きだった。授業中も落ち着きがなくうるさい子供で。ある時、オフクロが授業参観で学校に来て、職員室の前に正座させられている僕を見て、考えさせられたのだろう。悪ガキを改めさせるには何かをやらせないといけない、両親はそう思ったのでしょう。

「お前、柔道をやれ」

小学4年のある日、新聞で柔道場の広告を見つけた親父にそう言われて。柔道なんてよくわからないし、ほったらかしにしていたら、「お前、道場に行けよ!」と、親父に怒られて。

近所の道場に通いはじめたけど、練習がきつかった。畳の上で押さえ込まれると、相手を除けて起き上がるまで締め上げられたり。練習を楽しいと思ったことは柔道人生の中で一度もない、そう言っても過言ではない。

それでも柔道を止めなかったのは、道場に行けば仲間がいたからだ。一緒に柔道の厳しい練習をした仲間は、それまでの友だちとは一味違っていた。そんな友だちに影響されたのか、親の狙い通り道場に通いだして、悪さやいたずらはピタッとなくなった。

僕が柔道を始めると、親父やオフクロと一緒の機会も増えた。道場への送りはオフクロで、迎えだいたい親父だった。当時から親父とは思うように話ができず、練習が終わった後の車の中で、親父に「ジュースが欲しい」といい出せなかったことを覚えている。

だが親父は僕を応援してくれていた。表情には出さなかったが、試合に勝った時は我がことのように喜んでくれたに違いない。

例えば親父は当時、発売されたばかりのでっかいビデオカメラを購入して、僕の試合を撮ってくれた。ところが、僕が対戦相手を投げた瞬間は、決まって天井や畳が映っている。

──なんだよ、お父さん、肝心のところが撮れてないじゃないか。

当時はそう思ったものだが、声援をするでもなく、ただ黙って試合を観ていた親父は僕が勝った瞬間、いつも興奮して撮影どころではなかったんだろうと、大人になって気が付いた。

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昔のガンコ親父のような父親から逃げ出したい…

「あんたの試合を観ると、心臓がドキドキしちゃうから」

オフクロはそんなことを言って、僕の試合を観に来なくなったが親父は熱心に試合会場に足を運んでくれた。道場のみんなとキャンプやバーベキューに行く時は、率先して親父が車を運転してくれた。あの無口な何を考えているのかわからなかった親父は、今にして思うとみんなと賑やかにしていることが、好きだったんじゃないか。

道場の先生とは麻雀仲間になって、週に1回は卓を囲んでいた。僕の柔道を通して親父も交際範囲が広がり、趣味が広がったという感じだった。

僕は小学生の時から身体は大きかったが、ずば抜けて強い選手ではなかった。道場の先輩が全寮制で柔道を教える私塾、講道学舎に進んだことから僕も親父に連れられ、東京の世田谷にある講道学舎の試験を受けたのは中学2年の終わりだった。僕と一緒に試験を受けた同じ道場の同級の選手がとび抜けて強かった。講道学舎はその選手を取りたかったのだろう。その子も合格したが、ついでに僕も入塾が許された。

「どうするんだ?」

と、親父に聞かれたことを思い出す。あのときは“学舎に行け”と親父に言われたのか、僕のほうから“行く”と決めたのか、定かではない。

「大丈夫だよ、どうにかなるって」

学舎に行くと決めた後、そんなことを言ったような気がする。

親父としては自分も中卒で田舎を離れて働いたわけだし、お前も一生懸命になって頑張ってみろ、ぐらいに思っていたのだろう。いずれにしろ、親父は深い考えがあって僕を東京に出したわけではなかった。

オフクロは寂しかったみたいだ。だが14歳で家を出た時はもうこの家に戻り親父やオフクロと一緒に暮らすことはないだろうと、僕は漠然とわかっていたような気がする。何より一緒にいると間が持てない、話すことがない、そんな昔のガンコ親父のような父親から、逃げ出したい気持ちがあったのは確かだ。

どこに置かれても適応能力には自信がある。講道学舎には同じ年の子もたくさんいたからすぐに慣れて、ホームシックになるようなこともなくて。

とにかく柔道に集中する環境だった。周りには古賀先輩をはじめ強い選手がたくさんいた。

──負けたくない、強くなりたい。

試合で勝てるようになると徐々に自信がついてきた。レギュラーとして高校2、3年は全国大会で優勝したが。

僕も親父に似ているのだろうか

「オレ、専門学校に行って接骨医になるよ」

親父にそんな相談をしたのは、高校3年の時だった。スポーツ推薦で入れる大学はたくさんあったが、柔道は高校時代に目一杯やった。もうあんなにきつい練習から足を洗いたかった、柔道は高校時代で終わりにしたかったんだ。

「大学には行っておけ」

親父のあの時のアドバイスも深い意味があってのことではない。高校で結果を残しているし、無試験で大学に入れるんだし、地元の道場の先輩の多くも大学に進学している。「だからお前も行け」と、その程度の考えだったに違いない。

一つぐらい親孝行をするつもりで、親父の言うことを聞き大学に進学して。親父の小さな自営の会社は新日鐵の下請けだった。新日鐵に就職したのは親会社に有力な柔道選手として就職することで、親父に少し鼻が高い思いをさせてあげようと、自分で決めたことだった。

入社してすぐにバルセロナ五輪で金メダルを獲った。帰国すると新日鐵名古屋製鉄所にも挨拶に行って、その意味では親父もかなり顔が立ったんじゃないか。

バルセロナ五輪で内股が決まり、一本勝ちで優勝した時も親父は会場にいた。この時も親父が「頑張ったな」とか「よかったな」とか、声をかけてくれていたら、僕も笑顔で応えたのだけれど。相変わらず親父は照れ性の言葉足らずで、自分の気持ちを人に伝えるのがへタクソだから。

首から金メダルを下げた僕は、照れたようにちょっと嬉しそうな顔をする親父と、とりあえず握手をしたのを覚えている。あの時、親父とちょっとだけ、心を通じ合えた実感を抱いたものだが。

僕は次に控えた古賀先輩のことで頭がいっぱいだった。宿舎に戻って古賀先輩にこの金メダルのことをどう伝えるか。先輩の励みになってくれればいいが……。
僕も親父に似ているのだろうか。言葉では古賀先輩に、何も伝えられなかった気がしている。

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「大丈夫だよ、どうにかなるって」

『三輪工業代表取締役社長』

それが子供の頃に目にした親父の名刺だった。中学を卒業して田舎から出てきた親父は、先のこともよくわからないまま、一所懸命に働いて自分の会社を作って、自分なりの仕事をしていたんでしょう。

──サラリーマンは給料も決まっているし、オレは自分の力で勝負をしてみたい。

それは親父の代表取締役社長の名刺に影響されたからかもしれない。新日鐵の社長にはなれそうもないと、入社した時にわかった。だから柔道を引退する時、会社も辞めると僕は決めていた。

会社を辞めて、まず道場を作ったのは、以前から子供に柔道を教えたいという思いがあったからだが、道場では僕が社長のような立場だ。

「総合格闘技をやる、オレはそれで食っていくから」

会社を辞めたときに親にそう告げたが、総合格闘技といってもいったいどんなことをやるのか、親父もオフクロもわからなかったはずだ。

14歳で家を出て、講堂学舎で柔道漬けの生活を送った。

誰を頼るわけにもいかなかった。自分が強くなって試合に勝つ以外に、次の扉が開かない世界にずっと身を置いてきた。自分で道を切り開いてきた僕のやり方を、親はわかっていたに違いない。大会社を辞めて自分たちの想像もつかないことをやろうとしている息子に、心配しただろう。だが、親父もオフクロもそんな気持ちを一切、言葉にすることはなかった。

振り返ると、上京してから田舎に電話をかけるのは、決まってお金の無心だった。

「わかった」

僕が電話口でお金のことを切り出す前に、いつもオフクロはそう言ってくれた。親元を離れ遠くにいる息子の小遣いが足りないことを親は心配したのでしょう。大学3、4年になれば、飲みに行っても後輩におごらなければならない立場だから。高校、大学と特待生で学費は免除されたが、お金の面で人よりはかなり親に迷惑をかけた。

──悪かったなぁ…

稼げるようになったら、何とかしてあげたかった。親父が仕事を辞めたこともあった。プロの格闘家として試合に出場するようになって、試合のファイトマネーでつい先日、地元に2軒目のコンビニをオープンさせた。今、オフクロはコンビニの店内の掃除が趣味になっている。親父も店に毎日顔を出しているようだ。

人にはそれぞれ価値観がある。田舎に戻って暮らすことはないだろうが、長男の責任も感じる。親にしてあげられることは全部、やってあげたい。

親父は心配しながらも、僕の試合を観るのが楽しみのようだ。オフクロは僕の出る試合を今も観ることができない。そんな親父とオフクロに、僕からかける言葉は今も変わらない。

「大丈夫だよ、どうにかなるって」

(ビッグコミックオリジナル2006年7月20日号掲載)

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image by: kuremo / Shutterstock.com

根岸康雄 この著者の記事一覧

横浜市生まれ、人物専門のライターとして、これまで4000人以上の人物をインタビューし記事を執筆。芸能、スポーツ、政治家、文化人、市井の人ジャンルを問わない。これまでの主な著書は「子から親への手紙」「日本工場力」「万国家計簿博覧会」「ザ・にっぽん人」「生存者」「頭を下げかった男たち」「死ぬ準備」「おとむらい」「子から親への手紙」などがある。

 

このシリーズは約250名の有名人を網羅しています。既に亡くなられた方も多数おります。取材対象の方が語る自分の親のことはご本人のお人柄はもちろん、古き良き、そして忘れ去られつつある日本人の親子の関係を余すところなく語っています。

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【著者】 根岸康雄 【月額】 ¥385/月(税込) 初月無料 【発行周期】 毎月 第1木曜日・第2木曜日・第3木曜日・第4木曜日

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