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歌舞伎の隈取りつけたまま患者を手術。俳優・山城新伍のけったいな父親

映画やドラマ、CMにバラエティ番組の司会と、まさに八面六臂の大活躍でお茶の間の人気を一身に集めた山城新伍氏。破天荒な生き方でも知られる山城さんですが、そのご両親も「規格外」の方々だったようです。今回のメルマガ『秘蔵! 昭和のスター・有名人が語る「私からお父さんお母さんへの手紙」』ではライターの根岸康雄さんが、山城さんが「けったい」と語る父、そして一本筋の通った母のエピソードを公開。さらに思わず漏らした娘への思いも併せて紹介しています。

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山城新伍「人間の存在は五分と五分、人はみな互角やというそれが親父の考え方だ。徳のある人だった」

山城とは『現代・河原乞食考─役者の世界って何やねん?』という本の上梓のタイミングでインタビューの機会を得た。都内のホテルのティールームでのインタビューには女性編集者も同席した。この本の版元は解放出版社だった。解放出版社は部落解放・人権研究所の関連する組織だ。表現には時に差別的な記述を織り込まなければ伝わらないことがある。父親の生きざまを描いたこの本には、そういう箇所が所々にある。人の考えようは様々で、仮に本の内容から差別を指摘され糾弾されたとしても、版元は差別撤廃と人権に造詣のある出版社なので、エクスキューズが効く。そんなちょっと姑息な裏技を遣うところが山城新伍らしいと感じた。インタビューの出だしは彼流の威圧するような口調で、尖った言葉に多少手こずったが、打ち解けてしまえばざっくばらんに自分のことを語る気のいい人であった。(根岸康雄)

歌舞伎の隈取りをつけたままで手術。けったいな親父だった

京都の老舗で、『たちばなや』という代々続いた醤油の製造元のボンとして育った親父は、店を継がずに医者になった。醤油の醸造より医者の方が、みんなが助かると思ったのか、家の敷地の中に渡辺医院という看板を掲げ、小さな医院を開業していた。

老舗の醤油の製造元だから、それなりに財産はあったのだろうけど、親父は自分の代で醤油製造元の店を潰そうと思ったのか。戦後のドサクサの中で財産が雲散霧消していくのも、一向に気にしていなかった。

けったいな親父だった。生活感というものがまったくない人だった。あれは4歳くらいの時だ。当時、弟と二人で屋根に上がって、風呂の煙突掃除をするのが僕の役割で。ある日、夕飯の時に親父が、「安治、大変やなあ、おまえら煙突の中に入って、掃除しとるのか?」って。

フツーの家の風呂の煙突なんだから、子供でも中に入れるわけがないじゃないか。誰が見たってそんなことはわかる。「煙突の中には入れないよ」と、僕が大声を出したら、

「そうか、わし考えたんやけどな、お前より体の小さい弟を縄で縛ってな、煙突の穴から出し入れしたら、一発できれいになるな」

親父は真面目な顔して、そんなことを言っていた。

道楽者の親父だった。家の離れにはよく義太夫語りや講釈師や、染めの禿げたような紋付きを着た芸人さんたちが集まってきて、サロンのようだった。親父は芸人さんたちが自分を慕って、遊びに来てくれることを誇りに思っていたところがあった。

親父も芸事が好きで、芝居好きの医者仲間が集まり、けっこう本格的な素人歌舞伎をやっていた。医者だから威張っている人間が多い。みんな二枚目の殿さんみたいな役をやりたがる。なのに、親父の十八番、歌舞伎の演目のひとつの『お富与三郎』では、お富をゆする『蝙蝠安』役を喜んで演じていた。

ある日、先斗町の歌舞伎練場で、素人歌舞伎を演じていた時、近所の女の子が犬にほっぺたを噛まれたから、すぐに手術してほしいという連絡が入ったことがある。役者の顔を本職の人に仕上げてもらっていた『蝙蝠安』役の親父は、芝居の幕間にほっぺたに黒い蝙蝠をつけた化粧のまま診療所に戻り、手術したこともあった。

渡辺医院の看護婦長として、看護婦一人を従え、親父の仕事を手伝ったのはオフクロだった。けったいな親父どすなと、オフクロは思っていたに違いない。でも、「うちのお父ちゃんは歌舞伎好きでな」あーだこーだと、往診で親父がいない時なんか、患者相手に待合室で親父のことばかり話題にしていた。

夫婦ふたり、医者と看護婦、二人三脚で人生を渡っているみたいな感じだったんだろう。

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差別されていた人々に、親父はまったく分けへだてなかった

渡辺医院は京都西陣の千本というところにあって、あたりには現在でいう被差別部落と在日韓国・朝鮮の人たちの部落があった。親父は被差別部落の人間だろうが、在日の人間だろうが、分けへだてはまったくなかった。子供の目には、それがはっきりと分かっていた。往診の帰りでも、いい匂いがすると、

「おばあちゃん、リュウマチの具合はどう?元気しとるか、おっ、なんや、旨そうやないか」

被差別部落の人の家でも、在日韓国・朝鮮の人のとこでも上がり込んで、ご飯をごちそうになったりしていた。

往診に行って治療代の代わりにネギの束を抱えてきたり、在日の患者さんから牛のテールを新聞紙にくるんでもらってきたり。金さんという患者さんの朝鮮語のイントネーションの混じった聞き取りにくい日本語も、「うん、うん、そうかそうか」なんて合槌をうちながら、ニコニコして聞いていた。

当時の町は豆腐売りの声や豆売りの声や、人の呼び声がいっぱい飛びかっていた。その中にトウモロコシや米をお菓子にする、“爆弾あられ”を売って歩く在日韓国人のおじさんがいた。

そのおじさんの呼び声が、「チョイボノボンヤデ」みたいなかなりヘンな日本語で、僕はおじさんが醸し出す雰囲気に笑っちゃったのだけど。それを往診の途中の親父に見られたらしい。その日の夕方の飯の前だった。ブ厚い落語全集を読んでいた親父に、「きょう見たで、お前、笑うてたやないか。お前な、いいかげんにせえよ」そう言われて、落語全集でコツンと頭を叩かれた。

お前は在日の人の日本語がおかしいと笑っていた、そういうふうに人を見ることはいいことではない、親父の言葉には、そんな意味合いが込められていたのだろう。

でもね、それはちょっと違う。僕はね、おじさんがイントネーションの違う日本語をわざと使い、子供たちに真似され囃したてられ、それによって子供たちを集めて商売につなげている、そんなしたたかさを感じた時、なにかすごく物哀しかったんだ。

みんな親父に甘えていた。昔の町にはそんな役割の人がいた

当時、ほとんどの日本人は在日の人の名前を日本語で呼んでいたけど、オフクロは渡辺医院に来院する患者さんの名前を民族名で呼んでいた。例えば「キンさん」だったら「キムさん」というふうに。聞き慣れない名前がおかしくて、僕がクスッと笑ったことがあった。その時も、親父に意見をされたことを覚えている。

「人の名前を笑うのは、人の尊厳を著しく傷つけることになるんだ、大変なことなんだぞ」

人間の存在はみな等しい、人を分けへだてしてはいけない──、あの環境の中で育った僕は、そのことを心に刻みつけられたと思っている。

振り返ると、親父はアウトローにやさしかった。西陣という土地柄は歓楽街を控えヤクザも多くて、ケンカで刺されたヤクザがうちにかつぎ込まれ、「先生頼みます!」みたいなこともあった。

「よっしゃ、わかった」

親父はただでさえあまり麻酔を使わない医者だったが、そんな時はなおさらだ。

「痛い!痛い!先生、堪忍や堪忍や!」

「おまえにも人の痛みがわかっとるか。ワァーワァー泣きわめいて、お前んとこの兄貴分はこんな根性なしだと、子分どもにわしがいいふらしたるぞ」

怒鳴り声だったが、隣の部屋で様子を探っていた僕には、相手に言い聞かせるように聞こえた。

渡辺医院にはいろんな人が相談を持ち込んできた。

「先生、路面電車の線路に酔っぱらってひっくり返って動かんのがいてる、ちょっと行ってやって下さい」

近所の巡査が親父のところに来てそう訴える。カバンを下げた親父が人だかりをかき分けて近づくと、飲んだくれた酔っ払いの年寄りが、路面電車の線路に大の字になって寝ている。

「あんたな、なに気張っとるのや、はよ行こう、おいで」と、親父は酔っぱらいのおっさんの手を取って。

今考えると、みんな親父に甘えていたんじゃないか。昔の町にはそういう甘えを許す人間が必ずいた。

「安治な、人は生まれながらにして平等であると、えらい人はいうけどな。それはウソや。人は生まれながらにして人間だ、だからこそ平等でなくちゃならんのだ。そういうことだ……」

これも親父の言葉だった。

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葬式の時に知った、”親父って、こんな人やったんや…”

真冬の夜中でも患者さんから連絡が入ると、カバンを持ってマフラーを巻き、自転車を出して。そんな親父を見て育ち、僕は医者にはなるまいと思った。道楽をしていても途中で止め、患者のもとに行く。患者やみんなの話の聞き役で。損な役回りじゃないかと。京都には太秦の撮影所がある。当時は時代劇の撮影が全盛だった。時代劇が好きでスターに憧れた。

「僕が役者になったら、どうする?お父ちゃん」

「なれるもんならなれや、わしもそういうのやりたかったんやけどなぁ…」

親父がそう言ったのは、ニューフェイスに合格する前、京都の太秦に足しげく通い、時代劇のエキストラをやっていた当時のことだ。

医者の不養生という言葉があるけど、糖尿病の持病が悪化しても、親父は大きな病院にいかず、本格的に病気を治療することもなくずっと家にいた。多分、オフクロに甘えていたのだ。親父にとってオフクロが最高の“医者”だったのかもしれない。医者と看護婦、夫婦は助け合って生きてきたのだから。

親父が亡くなったのは、俺が15歳の時だった。親父の葬式は通りが人で埋まった。霊柩車が動きだすと、

「先生!先生!」

いろんなイントネーションの叫び声が聞こえた。「先生」という声にバラエティーがあって、

親父って、こんな人やったんやな……

僕は親父の人生を知った想いだった。

僕を先頭に育ち盛りの4人の子供とおばあちゃんを残して、親父は逝ってしまった。オフクロは経済的にも苦労したはずだ。でも、「お父ちゃんがいなくなってえらいこっちゃ、寝ずに考えようと思っていても、すぐ寝てしまうんや」なんて、オフクロは笑っていた。

親父が死んで渡辺病院がなくなったあと、オフクロは看護学校の先生になった。50歳を過ぎてからは、京都の亀岡にある重度知的障害者施設の看護婦長として、ずっと勤めていた。

「もう、辞めたらええやないか、山城新伍もけっこう稼ぐんやから、年寄りを働かせて、かっこう悪いやんか」

「何いうとるの、あんた?これまでさんざん私に面倒を見させておいて、自分がええかっこうできるようになったら、仕事を辞めろだなんて」

オフクロに、強い口調で怒られた思い出がある。

「障害を持った子供たちのつぶらな瞳で、ジッと見つめられると辞めることなんかできないよ」と、オフクロにしんみり言われたこともあった。

親父の徳に生かされた自分

今年2月に京都の南座で芝居をやることが決まり、昨年はその芝居の根回しのため、久しぶりに京都に長期滞在した。その時、親父のかつての患者さんとか、親父に世話になった人たちとか、親父に縁のあるいろんな人と話をする機会があった。

「この傷、親父さんに治してもらった手術のあとですよ」と、親父の“作品”を見せられたこともあった。

親父さ、なんだよ、あんなに早く逝っちゃって、俺たちに寂しい思いをさせてさ。

親父が早く逝ちゃったことに、恨みがましい気持もあったよ。でも、没後45年。親父を慕う人がまだこんなにいる。

親父の徳──、好き勝手やって生きてきた僕だが、振り返ると目に見えない親父の徳に守られて、今までやってこれた、生きてこれた気がしている。

オフクロは85歳になった。ただ、目出たい。

僕は小さい頃から、どこかクールな部分があった。だが、娘は僕以上に冷め切ったクールなところがある。娘はどんな人生を歩むのか……。

僕としては、もう少し自分の弱味を見せてくれる娘であってほしい、そんな思いを抱いているが。

(ビッグコミックオリジナル 1997年9月5日号掲載)

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image by: Shutterstock.com

根岸康雄 この著者の記事一覧

横浜市生まれ、人物専門のライターとして、これまで4000人以上の人物をインタビューし記事を執筆。芸能、スポーツ、政治家、文化人、市井の人ジャンルを問わない。これまでの主な著書は「子から親への手紙」「日本工場力」「万国家計簿博覧会」「ザ・にっぽん人」「生存者」「頭を下げかった男たち」「死ぬ準備」「おとむらい」「子から親への手紙」などがある。

 

このシリーズは約250名の有名人を網羅しています。既に亡くなられた方も多数おります。取材対象の方が語る自分の親のことはご本人のお人柄はもちろん、古き良き、そして忘れ去られつつある日本人の親子の関係を余すところなく語っています。

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【著者】 根岸康雄 【月額】 ¥385/月(税込) 初月無料 【発行周期】 毎月 第1木曜日・第2木曜日・第3木曜日・第4木曜日

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