くっきりとした目鼻立ちと圧倒的な脚線美、それでいて親しみやすい雰囲気で幅広い層からの人気を誇る、女優で歌手の木の実ナナさん。若くして芸能界入りを果たした彼女ですが、華々しい世界にデビューした後も人並み以上の苦労を強いられたと言います。今回のメルマガ『秘蔵! 昭和のスター・有名人が語る「私からお父さんお母さんへの手紙」』ではライターの根岸康雄さんが、木の実さん本人が語った亡き父への愛憎と、自身を支え続けてくれた母への思いを紹介しています。
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木の実ナナ/女優、歌手「トランペットの音色を想って、パパのことをもっと分かってあげられていたら……」
50数年も昔のことである。神奈川の川崎駅周辺にミスタウンという一大歓楽街があり、アイススケート場があった。私が小学5、6年の頃、ミスタウンのスケートリンクで遊んでいると、デビューして間がない木の実ナナがその日のゲストとして、特設ステージで数曲歌を披露した。彫りの深い顔立ちが印象に残っている。気さくな笑顔でサインをしてくれた。始めてもらった芸能人のサインだった。それから30数年、再びお会いした彼女の彫りの深い顔立ちと、気さくな笑顔が小学5年の頃に抱いた印象と重なった。そんなことも10数年前の出来事である。(根岸康雄)
下町の木造アパート、“パパママ”と呼ぶのはうちだけだった。
墨田区寺島町1丁目23番地の六畳一間の木造アパート、両親と妹と祖母と叔父と6人で暮らすその家で、私は育ちました。ママは元ダンサー、パパはトランペッターでした。
アパートの隣は原色のネオンが輝くタイル張りの建物、私が育ったその辺りは売春禁止法が施行される前のいわゆる赤線地帯でした。
「お兄さん」「お姉さん」
パパとママは赤線地帯で働くお姉さんたちから、そう呼ばれていた。パパもママも井戸端会議に加わるように気さくに親身になって、よく彼女たちの相談事を聞いていました。あの頃の下町は、ご近所が一つの家族のような雰囲気でした。
まわりの子供たちはみんなお父ちゃん、お母ちゃんと呼んでいるのに、うちだけ物心つく頃からパパ、ママと呼ばせていたのは、外国の映画の影響でしょう。
ハイカラなパパでした。まぶたに残る私が幼い頃のパパは、映画に出てくるマフィアのようなカッコをしていた。
カラオケもテープレコーダーさえない当時は、歌手よりバンドマンがもてはやされた時代で。仕立てのスーツにハットをかぶり、ピカピカの靴を履いて。
私はパパが19歳の時に生まれた子供だから、当時のパパは20歳代ですから、もてないわけがなかった。
「あんたを抱きしめて何度泣いたことか」
なんて話をママから聞いたのは、パパが亡くなってしばらくたってからでした。
ママはパパと結婚して踊りを止めて20歳で私を産んで。明治生まれの気性のきついお姑さんに従い、パパは遊びに夢中であまり家にお金を入れなかったに違いありません。そんな中で何とか家計を切り盛りして、大変だったことでしょう。
「鞠子、笑顔だよ。辛いときほど笑っていようね」
それはママの口癖でした。
「笑顔でいると幸せが来るんだよ」
ママはいつもそんなことを言っていた。
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「人のものを羨ましがってはいけないよ」って
夢をかなえてくれるママでした。友達の一人にお金持ちの子がいて。あるときその子の家に遊びに行くと、自分の部屋がある。勉強机もある。
私の家は六畳一間で、何をするにもちゃぶ台でした。幼い頃から感激屋だった私は、「うわ!」と、友だちの部屋を目にして思わず声を上げました。
「ママ、すごいんだよー」
家に帰って興奮して話をした覚えがあります。
「私も自分の部屋がほしい、でもムリだよね……」
そんなことを言ったら、
「鞠子、明日、楽しみにしておいで」って。
「本当だね、ママ」
翌日、私は学校から急いで家に帰りました。すると、
「はい、どうぞ」
ママが指差す方を見ると、押し入れの横の柱に、『鞠子の部屋』と可愛いリボンの付いた紙が貼ってある。
押し入れを開けると、布団を隅によけて作った半畳ほどのスペースに、家の小さなちゃぶ台を入れて。ちゃぶ台にはママの花柄のスカーフをかぶせてあって、電気スタンドが置かれていました。
嬉しかった。おやつを食べるのも宿題をやるのも、『鞠子の部屋』の中でした。用事があるときには、押し入れのふすまをママがノックしてくれる。
すごい、ママは何でも考えてくれる!
そう思っていた私でしたが、確かその年の暮れでした。クリスマスの時期にその子の家に行くと、応接間に見上げるようなクリスマスツリーが飾ってあった。
「すっげー……」
家に帰った私は、
「ママ、ママ!実はね」
と、アメリカの映画に出てくるようなクリスマスツリーの話をして。
「羨ましいなぁ、私もほしいなぁ」
そうママにねだりました。
「分かった、じゃ明日ね」
ママはそう約束してくれたから、負けないぐらいのツリーを作ってくれるはずだと、私はその日も学校から急いで戻った。
「ほら鞠子、ツリーだよ」
「え、どれ……?」
部屋の中を見ると、和ダンスの引き出しを段々になるように順番に開き、それに包装紙や折り紙を切ったものが貼り付けてある。
「違うよ、ママ!」
私が欲しかったのは、キラキラのモールや、チカチカ電飾がいっぱい光っているクリスマスツリーだったから。
「ママ、これじゃない!」
このときでした。
「我がままを言うんじゃない!」
ママに初めてお尻をパシーンと叩かれたのは。
「ママなんか大嫌いだ!」
私は家を飛び出し隅田川の土手で泣いていると、夕方、ママが私の横に座って。その時、諭された言葉は今も忘れません。
「人のものを羨ましがってはいけないよ」
って。
「ママのツリーがダメなら大きくなってから、自分で買えるように頑張りな」って。
ママの声は優しかった。
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トランペットが吹けなくなってからのパパは…
パパはあまり家にいませんでした。パパが帰ると分かっている日は酒屋さんにビンを持って、量り売りの合成酒を買いに行くのが私の役目でした。お酒の好きなパパでした。
六畳一間の家でお酒を飲む時は、近所の人とか誰かしら家に来ていた。そんなとき、私は風呂敷をかっぱ代わりに首に巻き、物差しを刀代わりにして、おばあちゃんと一緒に行った芝居小屋の旅回りの芸人さんの真似をして。私のそんな姿に顔を赤くした大人たちは手を叩き、おひねりが飛んできたりしました。
友達の付き添いでオーディションに行ったことがきっかけとなり、芸能界入りが決まったのは中学3年の時。早く働きたかった私は、芸能界に就職をするような気持ちでいましたけど、パパは私の芸能界入りに大反対でした。
「でも、パパだってトランペットが好きで、16歳から仕事をしてるって、おばあちゃんに聞いたよ」
だからパパは、華やかな芸事の世界の裏側の辛さ厳しさを知っている、とても娘には勧められないと思ったのでしょう。
「鞠子ね、名前が売れても、掃除のおばさんやおじさんに、きちんと挨拶できる人間でいろよ、それが守れるか」
最終的にパパが芸能界に入りを許してくれた時、そう含むように言われたことは忘れられません。そんな素敵なことが言えるパパだったのに。
パパが体を壊しのは、お酒が原因でした。トランペットを演奏することができなくなったのは、私が芸能界に入って2年ほどたった頃でした。当時パパはまだ、30歳代の半ばという若さでした。
それからのパパは──
トランペットを吹かなくたって、どんな仕事でもいいから、父親として働いて欲しいと私は何度もいったんですけど……。
パパは仕事に就いても3か月と持たない。その原因はいつもお酒でした。好きな仕事じゃない、仕事が嫌だから余計お酒を飲む。酔っぱらうと滅茶苦茶になってしまう。
トランペットが吹けなくなってからのパパは、いつしかお酒を飲むと人格が変わってしまうようになって。性格的には弱かったんでしょう。お酒でますます体を悪くして、入退院を繰り返しても、飲まずにいられなくて。
「お父さん、飲んでいるんですけど、お金がないんですよ」
お店の人からそんな連絡が入って。
「申し訳ありません」と、パパを迎えに行ったり。酔っ払うと道路でも寝ちゃうから、警察に保護されたパパを引き取りに行ったり。そんなことの繰り返しが20年以上。
24歳で好きな人ができて、
「結婚したい」
といった時は、
「バカヤロー、誰が家の面倒を見るんだ!」
って怒鳴られた。酒乱のようなパパが嫌いで、恨んだこともありました。正直いってものすごく恨んだ。
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私が踊れなくなったとしたら、その辛さは……
でもね、こうして振り返ると、そんなパパがいたことが逆にバネになり、私は強くなれた気がしています。
家族を支えていく、そのことは私にとって決して重荷ではなかった。長女の私がママの助けにならなければ、私が頑張らなければいけないんだと。
舞台やテレビで踊ったり歌ったりしていると、何もかも忘れて夢中になれました。小学校の時の文集に歌ったり踊ったりして、人が楽しんでくれることをやりたい、と私は書いています。
そんな子供のころの夢を大人になっても、ずっと続けてこれたのは思い起こしてみると、私が置かれたあの環境があったからでした。
「お姉ちゃん、ありがとうね」
それはパパが急死した当日、
「仕事に行ってきます」
そう声をかけた時、パパが私に言った最後の言葉でした。
私の腕の凍傷の跡はようやく消えましたが、それはパパの亡骸をずっと抱きしめていて、ドライアイスがあることに気づかず、傷つけたものでした。
なぜパパがお酒に溺れてしまったのか。
子供の時からトランペットを吹くことしか知らない父でした。パパがトランペットを吹けなくなった歳を過ぎてみて、私はしみじみ思ったことがあります。もし、私が事故か病気で足が不自由になり、舞台の上で踊れなくなったとしたら、その辛さは……。
パパ、そうなったら私だって……。
パパの苦しみや悲しみを私がもっと聞いてあげて、もっと分かってあげられたら、パパだって違う生き方ができたのかもしれない。
「ダンスを踊りたい」
パパが亡くなって、ママは再び踊りをはじめました。家でお酒を飲んで、ちょっと寂しくなった時、私はママが大好きなルンバの曲をかけます。踊っている時のママはいい顔をしている。
ママは舞台で踊っている私の姿を見ることが、何よりも好きです。
私はリーゼントで背広を着て、トランペットを吹いているパパの写真を、肌身離さず持っていています。
「パパ守ってね」
舞台に立つ前、私は写真のパパにそう話しかけます。
そしてステージで踊っている時、私は感じます。パパとママと私と、3人で一つダンスを演じているんだなと。
(ビッグコミックオリジナル2004年3月5日号掲載)
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