MAG2 NEWS MENU

「有観客」「自粛を要請」…コロナ下で氾濫した奇妙な言葉のこと

新型コロナウイルスの蔓延とともに、「三密」「人流」「有観客」「自粛要請」といった聞き慣れない言葉や、意味的に奇妙な言葉が広がっていきました。そして読みが同じであるため、「コロナ禍」と「コロナ下」の使い分けが曖昧な状況も生まれました。そんな“コロナ下”における「コロナ新語」について考察するのは、メルマガ『8人ばなし』著者の山崎勝義さん。「有観客」という妙な言葉が当たり前に使われるようになった理由や、“禍”と“下”の微妙な違いなどをわかりやすく伝えています。

世の中を鮮やかに斬る『8人ばなし』メルマガ詳細・ご登録はコチラ

 

コロナ禍/コロナ下の言葉のこと

思えばコロナ下において、変な言葉が随分と誕生した。それらのコロナ新語(これも変な言葉だが)に共通するのが「そりゃ、意味は分かるけれど…」という不思議な感覚である。感染が小康状態の今だから、それを束の間のチャンスと捉えてここいらで少々振り返ってみようという企みである。

まずはリバイバル系の言葉である。昨年四月の緊急事態宣言発出の際「自粛」という言葉がやや全体主義的な意味をもって使われるのを久しぶりに聞いたような気がした。久しぶりと言うからには当然先行例がある訳で、前回のそれは昭和天皇崩御の時であった。歓楽街からは灯りが消え、今風に言えば接待を伴う飲食店は大打撃を受けた。

政府から具体的な指示や何らかの命令が出た訳でもないのにそうなった訳だからまさしく「自粛」と言うことになるのだろうが、実態はそう単純ではなかった。というのも肝心の当該事業者は誰一人としてその状況を望んではおらず、例えばインタビューなどでマイクを向けられた際にも口々に「困った、困った」と言っていたからだ。つまり、どこ由来なのか分からない不気味な圧力のようなものを恐れるあまり結果としてそういう状況になったという訳である。その時、まだ十代だった自分はその現実が空恐ろしかった。

コロナ下においてはこの「自粛」にさらに「要請」が付け足された。「自粛」という言葉の本来の意味を考えれば明らかに矛盾概念であろう。矛盾概念をそのままに押し付けられ唯々諾々としてそれを遵守した我々日本人にはやはりどこか全体主義的になり易い傾向があると言っていいように思うのである。少なくとも日本(あるいは日本人)のこれからを考える上で「自粛」というものと個人がどう向き合うかを考えること自体が案外本質的な日本論(あるいは日本人論)のテーマたり得るのではないだろうか。

次に紹介したいのはプロのワードセンスが感じられる系の言葉である。「三密」「巣籠り需要」などがそれに当たる。特に「三密」はもともと密教用語である。どうやら日本人はここぞという時にはいまだに弘法の智恵にすがりたいようである。ちょっと面白い。

3つ目は科学者発信のセンスない系の言葉である。「人流」「濃厚接触者」などがそれである。例えば「人流」という言葉であるが「読んで字の如く」とは言うけれど、読まなければ今一つピンとは来ない。「濃厚接触者」も「濃厚に接触した相手」というふうに聞いてしまえば、もうどうしたってエロ系の言葉である。言葉の内面的意義をある程度無視して、まるで外来語を無理矢理に移入したような違和感を覚えるのは自分だけだろうか。

世の中を鮮やかに斬る『8人ばなし』メルマガ詳細・ご登録はコチラ

 

最後に紹介したいのが注意喚起逆転系の言葉である。「有観客」という言葉がその典型例であろう。本来観客はいて当たり前だから「有観客」という言葉はもともと存在しなかった。そこを「無観客」と敢えて言うことで(markすることで)観客のいない不自然さを当初は示していた(例:無観客ライブなど)。

ところがそういった「無観客」の状況が長く続いたために観客を容れることの方が逆に特殊になったためにmarkはこちらに移ってしまって敢えて「有観客」と言うようになったのである(例:有観客ライブなど)。

基本的に我々は、当たり前の方をunmarkedとして流せるように、特殊な方をmarkedとして注目できるように表現する。その一般例(unmarked)と特殊例(marked)が逆転してしまった好例がこの「有観客」という言葉なのである。

さて冒頭に戻って「コロナ下」という表現についてだがこれも「コロナ禍」との混用があるように思う。例えば戦争という言葉に対して「戦禍」と「戦時下」という表現があるように「コロナ禍」と「コロナ下」の間にも意味の違いは当然ある。

しかしもともと「コロナ」という言葉自体が病名(ウィルス名)だから「コロナ禍」と言おうが「コロナ下」と言おうがそこには災いの意味的要素がある訳である。その災いという意味的共通点が「禍」と「下」の意味の違いを凌駕して混用を許すような環境を作り出しているのである。似たような例としては「ご時世」と「ご時勢」の混用が挙げられる。「時勢」が「時世」をつくってしまった訳だから、同じ状況の動的表現か結果的表現かの違いである。

こんなふうにいろいろ考えたりしていると、この2年足らずで自分を取り巻く言語環境も様変わりしたな、と改めて思うのである。

世の中を鮮やかに斬る『8人ばなし』メルマガ詳細・ご登録はコチラ

 

image by: Shutterstock.com

山崎勝義この著者の記事一覧

ここにあるエッセイが『8人ばなし』である以上、時にその内容は、右にも寄れば、左にも寄る、またその表現は、上に昇ることもあれば、下に折れることもある。そんな覚束ない足下での危うい歩みの中に、何かしらの面白味を見つけて頂けたらと思う。

有料メルマガ好評配信中

  初月無料で読んでみる  

この記事が気に入ったら登録!しよう 『 8人ばなし 』

【著者】 山崎勝義 【月額】 ¥220/月(税込) 初月無料! 【発行周期】 毎週 火曜日 発行予定

print

シェアランキング

この記事が気に入ったら
いいね!しよう
MAG2 NEWSの最新情報をお届け