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プーチンを激怒させた「ウクライナ侵略の引き金」NATOの生い立ち

ロシアによるウクライナ侵略のトリガーのひとつになったとされる、北大西洋条約機構(NATO)の東方拡大。加盟国間の集団的自衛権を定める同条約は、どのような時代背景のもと、いかなる思惑を持ち生まれたものなのでしょうか。今回のメルマガ『モリの新しい社会をデザインする ニュースレター(有料版)』では著者でジャーナリストの伊東森さんが、北大西洋条約機構の歴史を詳説。変貌し続けるNATOの実像を時系列を追い解説しています。

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衝突は不回避だったのか ロシアのウクライナ侵攻とNATOの東方拡大との関係 ~1~ NATOとは?

ロシアのウクライナ侵攻を考えるうえで、今一度、「NATOの東方拡大」のことを考えなくてはならない。

NATO(北大西洋条約機構)は、1949年の冷戦期、ソ連を主とする共産圏のブロックに対する西側諸国の軍事同盟として発足。ただ、ソ連崩壊後、そのNATOの存在意義は大きく揺さぶられた。

事実、ベルリンの壁が崩壊した直後、米国を中心とするNATO加盟国は、当時のソ連の大統領であるゴルバチョフのペレストロイカを外から支援する側面も含めて、NATOは東方にその陣地を「1インチとも」拡大しないことを、密約のような形で約束していたことが、米国ジョージワシントン大学のアーカイブに残されている公文書から、すでに明らかになっている。

NATOとしては、ソ連という最大の仮想敵国をなくした以上、もはや軍事同盟としての意味合いをなくし、いずれはロシアをも加盟させる「友好条約」に変貌させる案も議論された。

ただ、加盟国の隅々に軍事基地を持ち、実際にNATO軍として軍を駐留させている以上、そのような巨大な軍事同盟を解消させることは簡単ではなかった。

それどころか、NATOは冷戦崩壊後も、東方への拡大を続ける。エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国を皮切りに、“ソ連の味方”であった旧共産圏のポーランドやハンガリーまでもが、NATOに加盟するまでになった。

そのようなNATOをロシアが敵視することはわかりきっている。さらに近年ではウクライナまでもがNATOに加盟する意思表示を示したことで、ロシアが長い国境線を接し、なおかつ旧ソ連の構成国であるウクライナに対し、なんらかのアクションを起こすであろうことは、オプションのひとつではあった。

他方、北欧近辺でロシアと国境を接するフィンランドが、“あえて”NATOに加盟せずに、現在において中立的な地位にとどまることで、平和を守っていることは、今後のウクライナ情勢の“着地点”を考えるうえでは参考となるだろう。

目次

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NATOとは

NATOは、東西冷戦画が激しくなった1949年に、米国や英国、フランスなど西側陣営により調印された「北大西洋条約」に基づき設立された国際軍事機構。

加盟国の領土と国民の防衛を最大の責務とし、加盟国のどこか1カ国が武力攻撃を受けた場合には、全加盟国に対する攻撃とみなし、集団的自衛権を行使することを規定としている。

本部はベルギーのブリュッセルに位置。創設時点で、アイスランド・米国・英国・イタリア・オランダ・カナダ・デンマーク・ノルウェー・フランス・ベルギー・ポルトガル・ルクセンブルクの12カ国が加盟。

1952年にギリシャとトルコ、1955年に西ドイツ、1982年にスペイン、1999年のチェコ・ハンガリー・ポーランド、2004年にブルガリア・エストニア・ラトビア・リトアニア・ルーマニア・スロバキア・スロバニア・スロベニア、2009年にアルバニア・クロアチア、2017年にモンテネグロ、2020年に北マケドニアが加盟した。

現在の加盟国は30カ国にまで拡大、外務省によると加盟国の軍隊は合計332万人、加盟国の国防費の総額は1兆485億ドルに上る。

そもそもNATOは「ソビエトに対抗するために生まれた軍事同盟」であることは間違いない。正式名称を北大西洋条約機構とし、North Atlantic Treaty Organizationの略称だ。

NATOは、2021年12月時点でボスニア・ヘルツェゴビナ、ジョージア、ウクライナを「加盟希望国」として認めている。

ほかに、20カ国がNATOの平和のためのパートナーシップ・プログラムとして参加、別に15カ国が制度化された対話プログラムに参加している。

NATO加盟国の軍事費の合計は世界全体の70%を占めている。他方、加盟国は、2024年までにGDPの2%以上の国防費を目標とすることに合意している。

最高機関は各国の閣僚級代表で構成される理事会であり、その下に防衛計画委員会(国防相級代表)および軍事政策指導に相当する軍事委員会(参謀総長級代表)などがある。

ヨーロッパ連合軍最高司令部はベルギーのカストーにあり、北西欧・中欧・南欧の各司令部を指揮下に置く。大西洋海軍最高司令部は米国のノーフォークにあり、西大西洋・東大西洋の各司令部を指揮下に置く。

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NATOの歴史

NATOの歴史は、4つの段階において変容した。創設期、冷戦終結、対テロ戦争、米露対立の4段階だ。

NATOは、第二次世界大戦が終結し、その結果として東欧を支配下に置いたソビエト連邦との対立が激しくなる中、英国や米国が主体となり、1949年4月4日に締結された北大西洋条約に誕生。

ソ連を中心とする東側陣営に対抗するための西側陣営間の多国間軍事同盟であるとともに、初代事務総長のヘイスティング・イスメイの、

「アメリカを引き込み、ロシアを締め出し、ドイツを抑え込む」

という言葉が象徴するような姿がそこにはあった。

設立当初は、米国などの一部の国では、ドイツの徹底的な抑え込み、すなわちドイツの脱工業化、非ナチ化が構想される。

また戦後、連合軍占領下ではドイツは徹底的に武装解除され、小規模な国境警備体や機雷掃海艇部隊以外の国軍は持つことは許されず、代わりとして米国・英国・フランス・ソ連の4カ国が治安の責任を担う。

ところが、冷戦体制となり西ドイツに経済復興が求められる。主権回復後の1950年には西ドイツ(ドイツ連邦共和国)に再軍備の検討もなされ、西ドイツはドイツ連邦軍の創設とNATOへの加盟を進めたが、しかしフランスがこれに反対、フランスは欧州防衛共同体構想を提示する。

ただ、この構想はフランス議会で否決され、結果、フランスもドイツの再軍備を認め、1955年11月12日にドイツ連邦軍が誕生、同時にNATOに加盟した。

これに対し、ソ連を中心とする東側諸国はワルシャワ条約機構を発足、これによりヨーロッパは一部の中立国を除き、東西に2つの軍事同盟に分割された。

しかし、そのNATOは、冷戦期間中を通じ、実戦を経験することなく、冷戦の終結を迎える。

それとともにNATOは自らの存在意義を模索する段階に迫られ、1991年に「新戦略概念」を策定、新たな脅威として周辺地域における紛争を上げ、実際に1992年に勃発したボスニア・ヘルツェゴビナにおける内戦で適用された。

1999年のコソボ紛争時にはセルビアに対し、NATOとて初めての軍事行動となる空爆を行った。2001年9月11日の米国同時多発テロ事件では直後の10月2日に北大西洋条約5条を発動、2005年にはNATO軍はアフガニスタンにおいて初めて地上戦を行った。

しかし2000年代後半に入り、米国は東欧ミサイル防衛を推進、あるいはロシアの隣国であるジョージアやウクライナがNATOの加盟を目指したのに対し、経済が復興したロシアが強く反発、“米露新冷戦”とも呼べる事態を生んだ。

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ワルシャワ条約機構

NATOに対し、東側陣営はワルシャワ条約機構を結成し、対抗。ワルシャワ条約機構は、1955年にワルシャワ条約に基づきソビエトを中心とする東ヨーロッパ諸国が結成した軍事同盟。

ポーランドの首都ワルシャワで設立されたため、その名が付いた。だが、本部はモスクワに位置する。

正式名称は、「友好協力相互援助条約機構」。この同盟の目的は第一にNATOへの対抗であることは間違いない。

当時、米国とソ連との間では軍拡が盛ん。核ミサイルを、米国はトルコに、ソ連はキューバに設置、互いの国土に照準を向けていた。そのため、均衡を保つため、東側陣営はワルシャワ条約機構を作り上げる。

NATOが冷戦期、実戦を経験してこなかったのに対し、ワルシャワ条約機構は「集団的自衛権の行使」を理由に、ハンガリー動乱やプラハの春に軍事介入した。

加盟国は、ソ連・ポーランド・東ドイツ・チェコスロバキア・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリア・アルバニアの8カ国。ただ、東欧に位置するユーゴスラビアは独自路線を取り、参加しなかった。

1968年には、チェコ事件においてアルバニアがソ連に反発、脱退する。

ワルシャワ条約機構は、明確に西ドイツやNATOを仮想敵国として明示。条約の前文に、

「再軍国化した西ドイツの参加した『西ヨーロッパ連合』の形における新たな軍事的共同戦線の結成、および北大西洋ブロックへの西ドイツの加盟を規定し、その結果、新戦争への危機が高まり、かつ平和愛好国の安全に対する脅威が醸成されたパリ協定の批准によってヨーロッパに生起した情勢を考慮し…」

とする。

ただ、1985年に誕生したソ連のゴルバチョフのもとでペレストロイカ(改革)が進み、1989年の東欧革命により東ヨーロッパ諸国が社会主義から離脱、米ソ両首脳による冷戦の終結宣言を受け、1991年7月にワルシャワ条約機構は解散、直後、ソ連も解体にいたった。

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冷戦後のNATO

NATOの東方拡大が、今回のロシアのウクライナ侵攻の要因のひとつになったことは間違いない。2月28日の、英国ガーディアン紙は、

「多くがNATOの拡大は戦争を引き起こすと警告。しかし、それが無視された。我々は今、米国の傲慢さの対価を負わされている」

との見出しで、

「ロシアのウクライナ攻撃は侵略行為であり、最近の展開においてプーチンは主要な責任を負う。だが、NATOのロシアに対する傲慢な聞く耳を持たない対ロシア政策は、同等の責任を負う」

とした。

時は、1990年に遡る。ソ連はまだ、ドイツ再統一に否定的であった。とくに再統一されてドイツがNATOに入り込むことをソ連は懸念する。そのとき、西ドイツの首脳や米国首脳は、「NATOを東方に拡大しない」と説明していた。

実際、1990年2月9日、ベーカー米国務長官とソ連のシュワルナーゼ外相の会談時、ベーカーはソ連外相に、「NATOの管轄ないし、NATO軍は東方に動ないという鉄壁の保障が存在しなければならない」と語った。

あるいは、同年2月9日のゴルバチョフとベーカーの会談の際には、ベーカーはゴルバチョフに対し、

「もしわれわれがNATOの一部となるドイツに留まるなら、NTAO軍の管轄は1インチたりとも東方に拡大しない」

と述べたという。

ただ、冷戦の終結自体をNATOは歓迎したものの、1991年にワルシャワ条約機構が解散し、東中央諸国の安全保障上のつながりが一切、ないのは問題だった。ただ、この地域での紛争や不安定化は十分、予想できた。

さらに、1992年8月にモスクワで反ゴルバチョフのクーデター騒ぎがあり、ソ連中枢の権力の弱体化が誰の目にも明らかとなると、NATOもこれまでと同様、傍観することはできなかった。

そこで考案されたものが、「北大西洋協力理事会(NACC)」という仕組み。それは、ドイツと米国との協力関係の賜物であった。

ところが、このNACCはすぐさま難局に直面する。1991年12月20日に創設のための会合が開かれたとき、ソ連はまさに連邦消滅の危機に瀕していた。そして翌日の21日にソ連は解体、そして新たに12の独立国が誕生する見込みとなった。

同日、NACC創設会合に外相代理として出席したソ連の駐ベルギー大使は、ソ連最後の国際会議となったこの場にて、「ソ連は存在することをやめた」と明言、エリツィン大統領のNATO宛の親書を読み上げ、ロシアが「最終目標として」NATO加盟を希望することを読み上げた。

しかしながら、あわただしい時期であったため、わずか3カ月の間にNACCへの加盟を希望する国は、創設時の25カ国から34カ国にまで拡大。そうなると、もはやNATOは少数派となってしまった。

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平和のためのパートナーシップ

NATOの性格が冷戦終結後、瞬く間に変貌したことは間違いない。旧共産圏どころか、旧ソ連の中央アジア5カ国までNACC陣営に取り込んでしまった。

他方、NATO側もこのことを懸念していた。事実、当初、NATOはこれらの国を、「協力パートナー」として位置づける。

ところが、当の東中欧諸国がNATOへの直接加盟を求めるようになった。真っ先に名乗りを上げたのは、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリーの3国。

続いて、ソ連を離脱したばかりのバルト三国も、対ロシア政策の一環として、NATOへの参加の意向を示す。ただ、NATO側は、当初、東方拡大に慎重だった。

たとえば、1991年10月にチェコスロバキアのハヴェル大統領から直訴を受けた時も、当時のブッシュ(父)大統領は、NATOと旧ワルシャワ諸国とがNACCのような“緩やかな”関係を保つことが良いとし、NATOの直接加盟は、「現時点で望ましくない」と拒否した。

それにもかかわらず、旧共産圏の国々は再三にわたり、NATOへの直接加盟の意向を崩さない。

そのようななかで、NATO側が提案したのが、「平和のためのパートナーシップ」(PEP)と呼ばれるものであった。PEPへの参加の召集は、旧共産圏国だけでなく、全欧州安全保障協力会議(CSCE)の参加国すべてに発せられた。つまり、欧州の非NATO諸国すべてが対象となった。

PEPへの参加を希望する国は、NATOとの間に以下の取り決めをしなければならない。

第一に、すべての参加国に共通する「枠組文書」をNATOとの間で調印する。第二に、希望国は、協力希望事項を盛り込んだ、「申請文書」をNATOへ提出し、これに基づき、個別の「パートナーシップ・プログラム」がNATOとの間で調印される。

しかし、このパートナーシップ・プログラムの内容は、各国により異なっていた。国防計画や国防予算の立案、軍の民主統制、国連・CSCE下での活動への貢献、NATOとの合同訓練・演習や平和維持活動の強化、捜索・救護活動や人道活動能力の強化などがあった。

さらに長期的な視点として、NATOとの軍事的な作戦を行うようにするための能力の改善まで盛り込まれた。要は、参加国のニーズ次第でどのようにもなるものであった。

ただ、PEPの参加はNATO正式な加盟ではないのだから、北大西洋条約の第5条「共通防衛」の保障は得られない。

しかし参加国はベルギーのブリュッセルには少なくとも連絡機関を置くことができ、NATO本体への加盟に近づくことになる。そこで、次々とPEPへ加盟する国が出てきた。

1994年2月3日のエストニアを皮切りに、ロシアでさえ、「NATOからの度かさなる説得」により、6月22日に「枠組文書」に調印し、21番目の参加国となった。

さらに、冷戦期に中立政策を取ったスウェーデン、フィンランド、中立国のオーストリアだけでなく、永世中立国のスイスまでもが、この枠組文書に署名したのだ。

~つづく~

参考文献一覧

● 佐瀬昌盛『NATO 21世紀からの世界戦略』文藝春秋(文春新書)1999年
● 「NATOの『自分探し』とロシアのウクライナ軍事侵攻の関係」 ビデオニュース・ドットコム
● 孫崎享「【ウクライナ危機】NATO拡大を止めることが解決の道(1)」 JA.com 2022年3月14日。
● 孫崎享「【ウクライナ危機】NATO拡大を止めることが解決の道(2)」 JA.com 2022年3月15日
● 森原公敏『NATOはどこへゆくか』新日本出版社(新日本新書)2000年

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image by: Gints Ivuskans / Shutterstock.com

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伊東 森(いとう・しん): ジャーナリスト。物書き歴11年。精神疾患歴23年。「新しい社会をデザインする」をテーマに情報発信。 1984年1月28日生まれ。幼少期を福岡県三潴郡大木町で過ごす。小学校時代から、福岡県大川市に居住。高校時代から、福岡市へ転居。 高校時代から、うつ病を発症。うつ病のなか、高校、予備校を経て東洋大学社会学部社会学科へ2006年に入学。2010年卒業。その後、病気療養をしつつ、様々なWEB記事を執筆。大学時代の専攻は、メディア学、スポーツ社会学。2021年より、ジャーナリストとして本格的に活動。

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