江戸時代後期の弘化4年、長野県北部を襲った善光寺地震。7年に一度の御開帳の期間に発生したマグニチュード7を超えるこの大地震は、北信一帯にどのような被害をもたらしたのでしょうか。今回のメルマガ『歴史時代作家 早見俊の「地震が変えた日本史」』では時代小説の名手として知られる作家の早見俊さんが、善光寺地震の全貌に迫るとともに、大震災の二次災害を最小限に食い止めた松代藩主・真田幸貫の奮闘と指導能力の高さを紹介しています。
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非常時のリーダーの在り方 松代藩主真田幸貫
善光寺地震発生の時、松代藩主真田幸貫は松代城内にいました。
松代城は現在の長野県長野市に所在し、従って松代藩は長野県北部を領知とする大名家でした。城の櫓、塀、石垣が崩れましたが幸貫は無事でした。幸貫は直ちに城下及び領内の被害状況を調べます。
調査と共にまず大地震が発生したことを一刻(2時間)後には早飛脚で江戸の藩邸に報せました。
調査の結果、被害状況が判明しました。
4万2,000カ所で山崩れが起き、千曲川の支流、犀川が堰き止められました。城下町及び領内で倒壊した家屋は8,747軒、死傷者3,924人、235頭の牛馬が死亡しました。多くの村が水没し、堰が決壊すれば松代城も水に呑み込まれる危機が迫ります。
善光寺を大地震が襲ったことは江戸や上方でも大きな話題となりました。時代劇で瓦版と呼ばれる読売が競って記事にしたのです。善光寺御開帳の最中に起きた大地震を罹災地域以外で暮らす人々も他人事には思えなかったのでしょう。
読売は信憑性のない事柄を好き勝手に書き立てることが珍しくはないのですが、善光寺地震に関しては正確な情報を伝えようとしました。被害状況、罹災地域の地図を掲載しています。また、鯰と阿弥陀如来の錦絵が描かれます。
それでも、心ない狂歌、川柳が飛び交いました。「はるばるの道を詣でし善光寺地震におうてとんだけちえん(結縁)」「くたびれぞん、路銀がそん、命が大ぞん」などです。
真田家の家臣たちは幸貫に城を出て避難するよう進言しました。しかし、幸貫は自分が避難すれば領民の不安は増す、と城内に踏み止まります。城内にあって幸貫は堰の補強工事の指揮を執りました。避難していた1,000人に余る領民たちを城内に呼び寄せて工事に従事させ、排水講と堰の補強に当たりました。
領民たちは城に留まって工事の指揮を執る幸貫を見て、奮起します。
しかし、工事は固い岩盤に当たり難航を極めてしまいます。工事の最中に大雨が降り、水嵩は増える一方でした。そこで、「何が何でも工事を完成させろ」「死に物狂いでやれ」などとは、決して幸貫は命じませんでした。現代で言う二次災害を考えたのです。工事が未完のまま堰が決壊する事態を想定したのでした。
幸貫は工事を中止し、領民たちを避難させます。同時に堰が決壊したら狼煙で報せることにしました。事態は悪い方へと進みます。地震発生から半月余り経過した4月13日、堰は決壊し大量の水が領内を襲いました。狼煙による避難勧告と未完製ながら行った補強工事によって被害は最小限に食い止められます。
幸貫の指導がなかったら、善光寺地震にも匹敵する被害を出したかもしれません。唐突ですが、ロシア軍の侵攻に首都キーウに踏み止まって戦いの指揮を執るゼレンスキー大統領、大統領も女性、子供、お年寄などの避難に心を砕いています。戦争という人災、地震という天災、非常時における指導者像について考えさせられますね。
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真田幸貫には面白い逸話があります。
幸貫は松平定信の長男として産まれましたが、母親が側室であった為、11日後に誕生した正室の子が嫡男とされたことは前述しました。松平家の家督を継ぐ資格はなく部屋住みだったのですが、れっきとした大名の子です。その身分ながら幸貫は供も連れず、お忍びで江戸市中を散策するのを好んだとか。真田家に養子入りする話が持ち上がった時には、浪人姿に身をやつして松代藩の領内をつぶさに見て回ったそうです。
江戸時代のお殿さまは自藩の領内に家督相続をしてから入ります。幕府の大名統制の一つ、大名の世継ぎと妻は江戸で暮らすことが強いられていたからです。つまり、人質ですね。従いまして、大名は家督を継いでお国入りするまで自分が治める国、領知を知らないのです。江戸で誕生し、成人してから領知に赴く、現代の国会議員も東京で育ち、東京の大学を出て父親の選挙区の地盤を引き継いで当選しますね。
お国入りは参勤交代で行われます。参勤とは領知から江戸に赴き将軍に御目見えすることです。いずれの大名も参勤交代の義務があったのですが、御三家の水戸徳川家はその義務を負いませんでした。
いや、当主の間は江戸に定府することが課せられ、お国入りを許されなかったのです。江戸にあって将軍を補佐する為の処置だったのですが、水戸家は参勤交代の義務がない特別の家柄だと誇りました。江戸に常駐することから、いつしか水戸家の当主は庶民から副将軍と呼ばれるようになります。幕府に副将軍という役はないのですが、庶民は将軍さまに意見を言ってくださるありがたい存在として水戸家の当主に期待したのです。
また、水戸家の当主以外でも幕府の役職者、大老、老中、側用人、京都所司代、大坂城代、若年寄、寺社奉行、奏者番に就いた大名は江戸や京都、大坂に留まり、お国入りすることはありませんでした。いきなり老中に成ることはありません。譜代大名の嫡男として誕生し、家督を継いだ後、江戸城内の典礼を司る奏者番に選ばれ、その中から寺社奉行を兼ねる者が老中への道を歩みます。
譜代大名は136家あり、奏者番は20人から30人が定員でした。寺社奉行は4人です。寺社奉行に成った者はその後、若年寄、大坂城代、京都所司代を経て老中に昇進します。老中に就任すると死ぬまで務める者が珍しくありませんでした。ですから、老中職のまま死んだ大名はほとんど自分の領知に帰ることはなく、江戸や京都、大坂で暮らしたのです。
言うまでもなく老中は権力者でした。その動向は大名ばかりか庶民も注目していました。この為、老中は江戸城に登城、あるいは江戸城から下城する際、一行は迅速に移動しました。老中が急いで登城、下城すると、「一大事出来」と受け止めら、不穏な噂が流れます。ですから、いつも登城、下城は迅速に行っていたのです。常に速ければ、それが日常ですから、大事が起きたとは思われないのですね。
前述しましたように真田幸貫は老中を務めましたが定番コースを辿りませんでした。養子入りした真田家は外様です。幕府の役職は譜代大名が担うのが原則ですから、老中への登竜門である奏者番には成っていません。もちろん、寺社奉行や大坂城代、京都所司代も経験していません。老中首座水野忠邦が幸貫の見識を高く評価して老中にしたのです。その際、外様席から譜代席に移されました。
水野は松平定信を尊敬し、定信が行った、「寛政の改革」をお手本として、「天保の改革」を推進しました。幸貫を異例の人事で老中にしたのは定信の息子という理由もあったでしょう。
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水野は老中に成りたくて、成りたくて仕方がなかった男でした。老中に成るには老中にふさわしい見識ばかりか、現職老中や若年寄の引き立てがものを言いました。引き立てられるには、はっきり言って賄賂です。水野はせっせと賄賂を贈りました。お蔭で奏者番に成れたのですが、その時水野は肥前国唐津藩主でした。唐津藩主は長崎警備の任がある為、幕閣の中枢を担うことがないのが慣例でした。
この為、水野は幕府に浜松藩への転封を願い出ました。唐津藩は表高こそ六万石でしたが、実質二十五万石の豊かさでした。ところが浜松藩は、表高は同じ六万石ですが実質は十五万石余り、唐津藩からすれば大幅な減封になります。家臣は猛反対しましたが、水野は老中になるという執念で反対を押し切り、浜松藩に移りました。この時、家老が水野を諫めようと切腹しています。
そうまでして水野は老中に上り詰め、「天保の改革」を推進したのです。権力欲ばかりか政治に対する強い思いがあったのは確かでしょう。
ともかく、特例で老中となった幸貫ですから、水野忠邦が老中を辞すると幸貫も辞職しました。幕政と関わらなくなり、幸貫は藩政に専念します。藩校を充実させ、殖産興業を奨励しました。また、老中として海防を担っていたことからしても、西洋の文化、技術に関心が強く、藩内でも西洋の学問を奨励しました。幕末に活躍した佐久間象山は松代藩の藩校で西洋の学問を学んだ逸材です。
松代藩は幸貫がお国入りしていたのが不幸中の幸いであったのですね。
改めて非常時のリーダーの在り方について考えさせられます。
(メルマガ『歴史時代作家 早見俊の「地震が変えた日本史」』2022年9月2日号より一部抜粋。この続きはご登録の上、お楽しみください)
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