新説による合戦の展開は以下です。
小早川秀秋の軍勢が眼下に布陣していた西軍の大谷刑部の軍勢に襲いかかり、それを見た石田三成、宇喜多秀家は助勢しましたが、大谷勢は壊滅、そこへ東軍主力が駆けつけ、三成、秀家勢を攻撃、三成と秀家は呆気なく敗走したのでした。
筆者は岐阜市出身ということもあり、関ヶ原古戦場には何度か足を運びました。古戦場は関ヶ原ウオーランドというアミューズメントパークになっています。東西両軍の陣地と伝わる地には記念碑や旗印が立っていました。
石田三成の陣と伝わる笹尾山は1980年代に発掘調査が行われました。しかし、陣の遺構は発見されなかったのです。その調査レポートを筆者は読んだのですが、筆者を含め深く関心を寄せる意見は聞かれませんでした。発掘調査の不備で見つからなかったのだろう、という扱いだったのです。
時が流れ、新説が提示されて新説に基づいた発掘調査が行われました。すると、笹尾山ではなく新説が提唱した三成の陣地から土塁や堀といった陣地の遺構が見つかったのです。1980年代の発掘調査は決して不備ではなかったのですね。
どうやら、新説が関ヶ原の合戦の実像を示しているようです。
では、どうして従来伝わる関ヶ原の合戦が語られてきたのかというと、徳川家康の神格化と合戦に関わった武将の末裔がご先祖さまの武功を飾りたかったから、と推測されます。
呆気なく東軍が勝利したのでは有難味がありません。東西両陣営が一進一退を繰り広げていた戦局を、家康が小早川秀秋の寝返りを誘って優勢に転換させた……秀秋を裏切らせるにあたって秀秋の陣に鉄砲を放った、いわゆる問い鉄砲のエピソードが作られたのです。
まかり間違えば鉄砲を撃たれた秀秋は家康を攻撃するかもしれないのに、秀秋を脅した家康の豪胆さを称えたのです。豪胆といえば、家康が本陣を置いたとされてきた地は毛利の大軍が陣取る南宮山の麓、毛利勢が山を駆け下れば家康の陣地は蹂躙されました。それにもかかわらず、神君家康公は敵の眼下に堂々と布陣していた、と後世の御用学者は家康像を作り上げていったのです。
繰り返しますが、新説では家康は関ヶ原の合戦場にはいなかったのです。
事実は小説よりも奇なり、と言いますが、関ヶ原の合戦は奇が勝り、虚構が事実となっていったようです。ちょっと、ずれているかもしれませんが、幽霊の正体を見たり枯れ尾花、といったところでしょうか。
(メルマガ『歴史時代作家 早見俊の「地震が変えた日本史」』2022年9月23日号より一部抜粋。この続きはご登録の上、お楽しみください)
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