まともな議論がなされることなく、なし崩し的に強行されたと言っても過言ではない安倍元首相の国葬。国民を二分したこの葬儀は、はたして行われるべきだったのでしょうか。今回のメルマガ『小林よしのりライジング』では、『ゴーマニズム宣言』『おぼっちゃまくん』『東大一直線』等の人気作品でお馴染みの漫画家・小林よしのりさんが、この国葬の全体像を振り返り総括。その上で、日本においては二度と国葬を行うべきではないとの見解を記しています。※本稿では著者の意思と歴史的経緯に鑑み、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)を「統一協会」と表記しています
この記事の著者・小林よしのりさんのメルマガ
権力者を“権威”にする国葬は必要ない!
安倍晋三元首相の「国葬」が終わった。
わしは最初から賛成も反対もしない、無関心という姿勢でいた。政府がやると決めてしまった以上、中止などできるわけもなく、反対を唱えたって意味がないからだ。
しかしやったことの総括は必要であるし、それにもかかわらず誰も正確な総括をしていないのだから、ここでわしがやっておくしかないだろう。
そもそも今回の葬儀、一般には「国葬」という表記が多かったが、政府はずっと「国葬儀」と言っていた。
日本では明治以降、国葬は「国葬令」という法律に基づいて行われていたが、国葬令は戦後失効・廃止され、現在は国葬の基準を定めた法律はない。
それを全額国費で行うのなら、少なくとも国民の代表である議会に問うべきじゃないかと思うのだが、岸田内閣は閣議決定だけで実行した。
実際には、現状の制度では国会の関与等の担保が存在しないので、閣議決定だけでやっても法的に問題はないらしい。
しかし政府もそれをよく理解していなかったのか、十分な説明もせずに強行した形になってしまった。それで、これではとても「国葬」とは呼べないということで、「国葬儀」という、国葬であるような、ないような、ヌエのような言葉を使ったようにも思える。
実は、戦後唯一の「国葬」の前例とされていた吉田茂元首相の場合も「法的根拠の不在」を野党に追及され、政府は国会答弁で「国葬儀」という言葉を使っており、岸田内閣はそれを踏襲したのだ。
そういう、国葬なのかそうでないのかよくわからない「国葬儀」を、マスコミも大衆もなんとなく「国葬」と呼んでいたわけで、これはあまりにもいかがわしすぎる葬儀だった。
それならいっそ、「国葬儀」ではなく「国葬偽」という名称にすれば、ことの本質を表現できてよかったんじゃないか?「偽国葬」なら、もっとはっきりわかったと思うが。
そんな調子で、最初っからいかがわしさに満ちた「国葬」だったが、そのいかがわしさの中でも最たるものが、一般献花に並んだ人の列の映像だった。
ネトウヨはこの映像に大興奮、ツイッターでは「とんでもない長蛇の列、いや、これは大蛇の列です」「サイレントマジョリティの静かな抵抗に涙。日本はまだ大丈夫」などと、感涙にむせぶ者までいた。
だが、その参列者の人数は「2万人」だったという。
わしはそれを聞いて、「なーんだ」と思ってしまった。
わしがAKBのコンサートを見に行っていた頃は、国立競技場で7万人を動員したりもしていたし、新日本プロレスの東京ドーム大会では6万人入っていたし、その他にもわしはいろんなミュージシャンのスタジアムコンサートなどに行っているから、直観的に「2万人しかいなかったの?全然少ないな」と思ったのだ。
献花の列が長かったのは、単に行列の管理の仕方がヘタで、一列に並ばせていたからにすぎない。
2万人を一列で並ばせたら、だらだらとものすごく長くなってしまうのは当然で、普通のコンサート会場ならそんな並ばせ方はしない。何列にも分けて並ばせて、スムーズにさばいてしまう。「献花会場まで5時間かかった」なんて報道もあったが、コンサート会場でそんなことをやったら、入場できた時にはコンサートが終わってしまうじゃないか。
この記事の著者・小林よしのりさんのメルマガ
しかも、そこに統一協会の動員がかかっていないわけがない。
安倍晋三は統一協会とズブズブの関係で、それゆえに統一協会を憎む若者に殺されたのだから、統一協会が献花に動員をかけないはずがないということくらい、誰だって考えるだろう。
だから、本心から国葬に行きたいと思っていた人は、実際にはものすごく少なかったということになる。
ところが『羽鳥慎一モーニングショー』までが、その映像を流して「すごい行列です!」などと興奮気味にミスリードしていたものだから、馬鹿じみていると思った。そんなに安倍が好きだったのだろうか?
そこでわしはブログにこう書いて、ネトウヨを挑発してやった。
「コミケなら1日10万人が集まるのに、国民の巨額の税金を使ってやった国葬が、たったの2万人か!」
「巨人戦なら東京ドームに4万人、集まるらしい。なのに国を挙げて交通規制して、大騒ぎでやった国葬がたったの2万人とはこれいかに?少ないな~~~~~~~~~」
するとこれがネットニュースで断片的に紹介され、それがSNSで拡散されて炎上した。反響は賛否が半々というところだったが、激昂して罵詈雑言をわめき散らすネトウヨの反応は、実に面白かった。
普段からネトウヨ連中には、自分たちが不当にマイナーな存在として扱われているという被害者意識があった。
そして、それは「マスゴミ」が「偏向報道」で事実をゆがめているせいで、本当は自分達こそ多数派であるはずだと妄信していたのだ。
そこであの「長蛇の列」の映像を見たものだから、ついに今まで表に出されなかった「サイレントマジョリティ」が可視化されたのだと錯覚し、ぬか喜びして舞い上がったわけだ。
ところがあいにくなことに、わしが「献花が2万人は、国葬にしては少なすぎる」という本当のことを書いてしまったために、幻想があっという間に打ち砕かれて、せっかく満足しかけたプライドがたちまちズタボロに傷つけられてしまい、逆上したのである。
積年の恨みをようやく晴らせたつもりでいたのに、ほんのつかの間の夢でしかなかったと知らされてお気の毒とは思うが、申し訳ないことにわしは嘘がつけない。真実しか言えないのだから、しょうがない。
2か月も前から「国葬」のニュースが連日報じられ続け、テレビなどが散々宣伝しまくっていたのに、参列したのがたったの2万人!
それだったら、国葬以外の葬儀でもっと多くの人が参列した例など、いくらでも挙げられる。
芸能関係者で最多なのは3年前に東京ドームで行われたジャニー喜多川の「お別れの会」で、一般参列者数は約8万8,000だったという。
国葬でも何でもない、民間の葬儀で8万8,000人!
一方の安倍晋三は「国葬」で、国費を投じて、国家の行事として、あれだけ大々的に煽って煽って煽りまくって、たったの2万人なのだ!
わざわざ「国葬」にしたせいで、実際には安倍の熱烈な支持者はそれほどおらず、反対する者も根強くいることが炙り出されてしまった。
こんなことなら、普通に自民党葬にしておけばよかったのに、かえって死んだ後になって安倍に恥をかかせる結果になってしまったのである。
しかもネトウヨはわしが煽ったせいか、人数にやたらとこだわって「反対派集会の方がずっと少ない!」と言い出し、ツイッターで「日本野鳥の会のカウントでは307人」などの偽情報を拡散、日本野鳥の会はそんなカウントなどしておらず、事実ではないとのコメントを発表するという珍事まで起こる有様だった。
この記事の著者・小林よしのりさんのメルマガ
そして日本武道館で行われた肝心の葬儀だが、テレビ中継では滞りなく行われたように見えたが、会場で取材した日刊ゲンダイは「実際は超グダグダ」だったとリポートしている。
● これが安倍氏国葬の内幕…会場では水しか飲めず、官僚は寝落ち、超グダグダ進行に怒号まで
段取りが悪く、献花にやたらと時間がかかってダラダラと時間が延び、あまりの退屈さに「怒号」まで飛ぶ、ひどい始末になっていたという。
何時間もの長丁場にもかかわらず、会場内は飲料持ち込み禁止で、お茶もコーヒーもなく「水」しか飲めない。そのうえマスク着用だから、海外からの参列者には大変な苦痛を与えてしまったようだ。
しかも献花の際のBGMの一曲に、歌劇『カヴァレリア・ルスティカーナ』の間奏曲が使われていた。
この歌劇は、主人公が元カノと不倫していたのがバレ、元カノの夫と決闘して殺されるという話で、どう考えても「国葬」にふさわしくはない。オペラを知ってる外人が聞けば、これが何の曲かわかって大恥になってしまうはずで、何から何までが失敗していたのだ。
そんな中でもさらに大失敗だったのが、岸田首相の追悼の辞だった。十数分にも及ぶ長さなのに大した中身もなく、あまりのつまらなさに「寝落ち」している官僚もチラホラいたという。
逆に大いに評価を上げたのが菅義偉前首相の弔辞で、首相時代の答弁とは全く違って情緒を前面に出した言葉に「感動した」との声が多くあったようだ。
もっともわしは、菅が安倍銃撃の報を聞いて現地に駆け付けた際の、安倍の様子について「あなたならではの、あたたかな、ほほえみに、最後の一瞬、接することができました」というところなど、露骨に「盛った」部分が鼻について、ちっとも感動しなかった。菅が対面した時には安倍はもう瀕死の重態で、表情筋が動くような状態だったはずがないのだ。
菅の弔辞では、銀座の焼き鳥店で安倍に、自民党総裁選に返り咲きを目指して出馬するよう促し、3時間かけて説得に成功したことを「生涯最大の達成」と述べた部分が特に絶賛されていた。
だがこれも相当に「盛った」話で、実際にはこの時期には既に「安倍待望論」があり、本人も出馬に乗り気で、説得に3時間もかかったわけがなく、菅はせいぜい「背中を押した」程度だったらしい。
それまでにも安倍を説得した議員は他に何人もいたのに、これによって菅が第2期安倍政権を誕生させた「手柄」を独り占めしたものだから、安倍周辺の議員はみんな歯ぎしりしており、「自分だって説得した」と、安倍と会食した当時の記録を漁っている人もいるほどだという。
この弔辞で菅に「主役」を持っていかれてしまった岸田は相当に落胆したようで、関係者の間では冗談めかして「支持率より落ち込んでいる」とも言われ、「次の首相は菅に」という声も高まっているという。
紛い物のセレモニーである「国葬儀」は、肝心の故人に対する追悼などそっちのけで、自己顕示欲のエゴをさらけ出して、権力争いまで始めてしまう場となってしまっていた。
そして「自己顕示欲のエゴ」といえば、三浦瑠麗の「シースルー喪服」だ。
あの突飛な服装で参列し、しかもその喪服姿で悠然とネコをあやすポーズを決めた、見るからにナルシシズムに浸っている、ブロマイドみたいな写真をインスタグラムに載せた行為などは、自己顕示欲の最たるものだといえよう。
三浦は「国葬」の招待状の写真をツイッターに投稿して欠席を表明した蓮舫や辻元清美に対して「はしたなく見えるのでやめた方がいいと思いますよ」と言っていたが、これには当然ながら「あんたの方がはしたない」「国葬の主役って誰だっけ」「国葬に出席したというよりも、社交パーティーに行ってきましたというのか。悪目立ちしてない?」といった批判の声が殺到、「巨大ブーメラン」となった。
三浦にとってこの「国葬」は「安倍の追悼の場」ではなく、「私の晴れ舞台」だったのだ。
この記事の著者・小林よしのりさんのメルマガ
そんな茶番が展開された一方で、自称保守言論界やネトウヨの間では「国葬」によって、安倍に対する個人崇拝が凄まじいまでに強化されるという現象が起きている。
式典で流された追悼ビデオは100%肯定的な政策評価に彩られ、「モリ・カケ・桜」のような物議をかもした話題は、当然のごとく一切なかったことにされていた。
そして菅は弔辞で「総理、あなたの判断はいつも正しかった」とまで断言し、安倍の政策、行動の全てを肯定したのである。
決して間違わなかった、無謬の安倍晋三、完全無欠の安倍晋三元首相、マンセー、マンセー!というわけだ。
金正日の国葬と変わらないくらいの個人崇拝である。これでは全く北朝鮮と同じ、権威主義の国になってしまう。
いくら法的に問題がなかったとしても、やはりこんな奇妙な儀式が、税金で行われるようなことを許していていいはずがない。
わざわざ国費を使って、日本の右派が完全に権威主義・個人崇拝になってしまったおぞましい様子を大々的にさらしたのが、安倍の「国葬」である。
そもそもアベノミクスなんか全然成功したとは思えないし、戦後レジームからの脱却なんか何もできなかったとしか思えないし、安倍が行った政策のひとつひとつに疑問がありすぎる。
そんな安倍を個人崇拝する意味が分からないし、やってよいこととも到底思えない。
結局、安倍晋三の「国葬」は「安倍マンセー派の自己満足セレモニー」でしかなかった。
もう二度と「国葬」なんかやらなくていい。やる必要がない。
「国葬」だろうが「国葬儀」だろうが、そのための法を作る必要もない。
日本は「権威(天皇陛下)」と「権力(総理大臣)」が分立して、天皇陛下の方が地位が上とはっきりしている。
したがって、日本には「大喪の礼」だけでいい!
たかが「権力者」を「権威」として持ち上げる必要などないのだ!(『小林よしのりライジング』2022年10月4日号より一部抜粋・文中敬称略)
この記事の著者・小林よしのりさんのメルマガ
image by: YuichiMori / Shutterstock.com