ロシアのプーチン大統領のメンターであるドゥーギン氏のように、実はあのヒトラーにもメンターがいたと言われています。その人物がどのような人だったのか、今回の無料メルマガ『ロシア政治経済ジャーナル』では著者で国際関係ジャーナリストの北野幸伯さんが詳しく紹介しています。
ヒトラーのメンター1~メンターの正しかった大戦略観
プーチンには、アレクサンドル・ドゥーギンというメンターがいます。8月、娘のダリヤ・ドゥーギナが爆殺されたことで、世界的に有名になりました。そんなドゥーギンですが、最近は弱気なプーチンにイラついているようです。時事11月14日。
ドゥーギン氏は10日、通信アプリでヘルソン市撤退について「ロシアの州都の一つ」を明け渡したと指摘し、完全な権力を与えられた独裁者は、国民や国家を守るものだと強調。失敗時には、英人類学者フレイザーの古典「金枝篇」中の「雨の王」の運命をたどるとした。干ばつ時に雨を降らせられない支配者が殺されるとの内容を指しているとみられる。
要するにドゥーギンは、「プーチンがロシアの領土を守れなければ殺される」と発言している。ドゥーギンは、ヘルソン市を「ロシアの州都の一つ」としています。つまり彼は、ロシアが最近「併合した」と主張しているドネツク州、ルガンスク州、ザポリージャ州、ヘルソン州をウクライナが奪還しても、「王は殺される」と見ている。プーチン政権、末期ですね。
今回は、ドゥーギンの話がメインではありません。独裁者プーチンには、ドゥーギンがいる。独裁者ヒトラーにもメンターがいました。ドイツの地政学者カール・ハウスホーファーです。
ヒトラーのメンターはどんな人?
カール・ハウスホーファーは1869年、ミュンヘンで生まれました(明治維新の翌年)。ドイツ帝国陸軍大学を卒業。1896年、ユダヤ人女性マルタ・マイヤー・ドスと結婚(27歳)。1903年から、帝国陸軍大学で、軍事史を教えました。1908年~1910年、駐日ドイツ大使館付武官として、日本に滞在(39~41歳)。第一次大戦時、西部戦線に従軍し、少将に昇進(ですが、戦争には負けました)。第一次大戦後の1921年、ミュンヘン大学の地理学教授になります(52歳)。
1919年、ハウスホーファーは、後にナチス党の副総統になるルドルフ・ヘスと知り合います。1921年には、後の独裁者ヒトラーと知り合っています。ヒトラーは、ハウスホーファーの「生存圏理論」に大いに関心を示し、ナチス党の政策に取り入れたのです。
ヒトラーの侵略を正当化させた「生存圏理論」とは?
最近日本でも「地政学」が流行っています。しかし、少し前まで、地政学は「危険な学問」「禁断の学問」などと呼ばれていました。なぜでしょうか?大きな理由の一つは、ハウスホーファーの「生存圏理論」をヒトラーが採用し、「侵略を正当化する理論」として使ったからです。
では、「生存圏理論」とはどういう理論なのでしょうか?生存圏とは、国家が生存(=自給自足)するために、必要な地域のことです。人口が増えたり、国力が増せば、必要な生存圏も大きくなる。その時、国家が生存圏を確保するために、国境を拡張することは、「国家の権利である」と主張したのです。この考え方だと、「生存圏を確保するために他国を攻めることは『権利である』」ことになり、他国への侵略は肯定されることになります。
わかりやすくするために、例を挙げてみましょう。日本のエネルギー自給率は、約12%だそうです。全然自給できていない。ハウスホーファー的にいうと、「生存圏を確保できていない」状態。それで、日本がエネルギーを自給自足できる状態をつくるためにサウジアラビアを侵略する。「これは国家の権利だ!」とハウスホーファーは主張したのです。「かなりヤバイ思想」であることがわかるでしょう。
ヒトラーは、どこでこの話を聞いたのでしょうか?1923年11月、ヒトラーはクーデターを画策し、いわゆるミュンヘン一揆を起こしました。ところが、一揆は半日で鎮圧され、ヒトラーは逮捕されます。1924年6月から11月の間、ハウスホーファーは、刑務所に通い、ヒトラーとヘスに、地政学、戦争学などを伝授したのです。
ヒトラーは1925年、『我が闘争』を出版。そこには、ハウスホーファーの影響が見て取れます。
<“民族主義的国家の外交政策は、一方では国民の数およびその増加と他方では領土の大きさおよびその資源との間に健全で、生存可能であり、また自然的でもある関係を作り出すことにより、国家を通じて総括される人種の存在をこの遊星上で保証すべきものである”
“この地上でじゅうぶんな大きさの区域を占めることだけが、一民族に生存の自由を保証しうるのである”
(『我が闘争(下)』378p)>
ヒトラーは、東欧は「ドイツの生存圏である」と主張。東欧に移住している、スラブ系諸民族を排除し、ドイツの領土にすべきと主張しました。ヒトラーは後に、大陸欧州のほとんどの国に侵攻し、勝利をおさめました(一時的でしたが)。
「大戦略眼」は確かだったハウスホーファー
というわけで、ハウスホーファーは、「ヒトラーに悪魔の思想を植えつけた男」として、歴史に悪名を残しています。しかし、彼には「興味深い事実」もあります。一つは、ハウスホーファーの【大戦略眼】が「確かだった」ということ。どういうことでしょうか?
実は、ハウスホーファーは、ヒトラーと仲たがいしています。なぜ?ハウスホーファーは、地政学の観点から、「シーパワー連合(米英)に勝利するために、ドイツとソ連は同盟し、ランドパワー連合をつくるべき」と主張していました(ハウスホーファーは日本好きだったせいか、独ソ同盟に、日本を加えることも主張しました)。
ドイツは1939年8月、ソ連と「不可侵条約」を結びます。これは、ハウスホーファーの教えどおりでした。1940年、ヒトラーは、ものすごいスピードで、大陸欧州の支配を実現します。たとえばナチスドイツは、わずか1か月で大国フランスに勝利したのです。
ヒトラーは、次にソ連征服を企てます。彼は1941年6月、ドイツはソ連を攻撃し、独ソ戦がはじまりました。ハウスホーファーは、ソ連侵攻に断固反対でした。結果、メンター・ハウスホーファー、弟子ヒトラーは決裂したのです。
そして、歴史を知る私たちは、ハウスホーファーが正しかったことを知っています。もしヒトラーがこの時、ハウスホーファーのいうことを聞いていればどうなったでしょう。ドイツの敵は、ソ連侵攻前、事実上イギリス一国だけでした。それで、ドイツはイギリスに勝利し、全欧州の覇者になれた可能性があります。しかし実際は、西でイギリス、アメリカと、東でソ連と戦う「二正面作戦」になった。必然的に、ヒトラーは敗北したのです。
ヒトラーは自殺する前に思ったでしょうか?「マスターのいうことを聞いておけばよかった…」と。
日本についてもハウスホーファーの「大戦略眼」は正しかった
ドイツについて、ハウスホーファーの「大戦略観は正しかった」という話をしました。
実をいうと、彼は日本についても正しいアドバイスをしていたことがわかっています。ハウスホーファーは、
日本の伸長意思に、明瞭なる二つの方向ー北進傾向と南進傾向
(復刻版『ハウスホーファーの太平洋地政学解説』佐藤壮一郎 84p)
があることを知っていました。では、彼は、「北進」「南進」どちらを勧めていたのでしょうか?これは、「南進」を勧めていたのです。
ハウスホーファーは、日本の北進は、現在の状態をもって限界とすることが賢明である
(同上89p)
「現在の状態をもって」というのは、要するに「満州支配で止まれ」ということです。
日本の民族発展は、当然、南進の方向を基礎とすべしとするものである
(同上89p)
ところが、日本もヒトラー同様、ハウスホーファーの願いとは違う方向に向かいます。1937年にはじまった日中戦争は、ハウスホーファーを幻滅させました。ハウスホーファーは、日本が満洲と経済ブロックを組むのはかまわない。しかし、中国と戦争を開始したことは愚かだと考えていたのです。大の親日家だったハウスホーファーは、在日ドイツ大使館経由で、日本政府が方針を改めるよう働きかけていたが、成功しませんでした。ちなみに満州事変の首謀者・石原莞爾も、ハウスホーファー同様、中国と戦争をはじめたのは愚かと考えていました。
というわけで、今回は、「ヒトラーのメンター1」でした。もちろん、私は、ハウスホーファーの「生存圏理論」を肯定しません。ですが、彼が日本とヒトラーに対して「大戦略的」に「勝てるアドバイスをした」ことは、間違いありません。ですから、歴史、地政学、戦略に興味のある方は、この人物のことを学んでみてはいかがでしょうか?
(無料メルマガ『ロシア政治経済ジャーナル』2022年11月14日号より一部抜粋)
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