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徳川家光の乳母・春日局が、初対面だったはずの天海僧正に「久しぶり」と言った謎

謎に包まれているからこそ輝く、日本の歴史におけるさまざまな「説」。心理学者・富田隆さんがメルマガ『富田隆のお気楽心理学』の中で紹介しているのは、徳川幕府三代目将軍・徳川家光の乳母である春日局と明智光秀=天海僧正説について。いま大河ドラマでも注目されている「徳川家」をめぐる謎について掘り下げています。

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NHK大河ドラマで注目の徳川家「葵のご紋」を鄙びた山寺の香炉で見つけた話

つい先日のこと、義理の母、つまり家内の母の「四十九日」法要と納骨を済ませて参りました。

箱根登山鉄道の入生田駅の近くにある長興山紹太寺(ちょうこうさんしょうだいじ)という鄙びた禅寺に墓所があり、私は今回初めて詣でる機会を得ました。

このお寺は、何と箱根湯本まであとひと駅という山の中にあるので、小田急ロマンスカーに乗って出かけようものなら、気分はほとんど小旅行です。お陰様で、お天気にも恵まれました。不謹慎なことに、法事であるにもかかわらず、私は勝手にワクワクしていました。

そして、この山寺で、意外な出会いを体験することになります。

焼香をさせて頂いた折に、朱塗りの香炉に描かれた「紋所」に眼が止りました。時代劇でお馴染みの、あのポピュラーな紋所なのです。

「ひょっとして、これって葵(あおい)のご紋?」

NHK大河ドラマの宣伝でもあるまいし、なぜ徳川家の「葵のご紋」がこんな鄙びた山寺(失礼)に許されているのかと不思議に思っていると、ご住職が由来を説明してくださいました。

このお寺には、三代将軍家光の乳母である「春日局(かすがのつぼね)」のお墓があるのです。

もっとも、春日局くらいの有名人になりますと、東京都文京区の麟祥院(りんしょういん)、京都市の金戒光明寺、同市の妙心寺、そしてここ小田原の紹太寺と、四ヶ所にお墓があります。それぞれに縁もゆかりもあるのですが、この紹太寺で春日局は、その子供や孫である稲葉一族と共に眠っています。

春日局(斎藤福)は、明智光秀の重臣であった父の没後、母の実家である稲葉氏に匿(かくま)われ、その後さらに、母方の親戚である公家の三条家で養育され書道や歌道、香道などの貴族的な教養を身に付けました。稲葉一族とは母親を通じての縁だけでなく、後に、親戚筋の稲葉正成に嫁ぎ、さらに縁は深まりました。

そして、徳川の世になると、公家の教養を身に付けていたお福(春日局)は、夫正成が関が原で戦功を上げたこともあり、家康の孫、家光の乳母として江戸城に迎えられたのです。もっとも、お福は大奥に登るのに際し、形の上だけではありますが、夫稲葉正成と離縁することとなりました。昔は、あれこれ大変だったのですね。

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それはともかく、家光の将軍就任後、お福は、柳生新陰流(やぎゅうしんかげりゅう)で名高い兵法指南役の柳生但馬守宗矩(やぎゅうたじまのかみむねのり)、そして智恵伊豆と呼ばれた松平伊豆守信綱(まつだいらいずのかみのぶつな)らと共に三人組の「鼎(かなえ)の足」として将軍家光を支えたのです。彼女は大奥を取り仕切っただけでなく、朝廷との交渉役としても活躍します。なかなか政治的手腕のある女性だったようで、家光がお世継ぎに決まる過程でも蔭に彼女の政治工作があったと伝えれれています。

また前述の如く、彼女は江戸城「大奥」の官僚的組織や法度(はっと)を整備して、その基礎を築いた人物でもありましたから、その権勢は並ぶ者無く、彼女の息子、稲葉正勝も家光の小姓に取り立てられて大いに出世、やがて小田原の藩主となりました。ですから、ここ紹太寺には小田原藩主であった稲葉一族の墓所があり、春日局もそこに眠っているというわけです。

以前にもこのコーナーに書きましたが、私は「明智光秀=天海僧正説」に魅力を感じている一人です。これは、明智光秀が実は生き延びており、名を変え得度して天海僧正となり、徳川家康を支えたという古くからの伝説です。

もちろん、この話はほとんど陰謀論やら都市伝説みたいなもので、アカデミックの世界では完全に否定され冗談のネタにされています。しかし、この説が未だに人気があるのは、もし、光秀が天海としてその後も活躍していたと仮定すると、歴史上の不可解な疑問点が幾つもすんなり解決するからです。

そんなわけですから、この話に斎藤福(春日局)が一役かっている、というよりもこのパズルを構成する上で最も重要なピースとなっているということを思い出し、私は、ますます幸せな気分になりました。

天海とお福に関しては、特に、江戸城で二人が初めて出会った時の逸話が有名です。それまでは、まったく面識が無いはずの二人なのですが、この時、天海の顔を見たお福が、どういうわけか「お久しぶりでございます」と挨拶したと言うのです。

彼女はそもそも、明智光秀の重臣であった斎藤利三の娘ですから、幼い頃、主君の光秀に近しく会っていたとしても不思議はありません。幼い頃、既に顔を見知っていた光秀(天海)に対して、つい懐かしさのあまり、「お久しぶりでございます」という言葉が口を突いて出た、という解釈には説得力があります。もちろん、あまりにドラマチックですから、これが後世の作り話である可能性も大なのですが1…。

しかし、「天海=光秀説」を事実と仮定すれば、家康の行動の謎がひとつ解決するのです。それは、当時、世間一般からは逆賊の娘と後ろ指をさされていたお福を、家康はなぜあれほどまでに重用(ちょうよう)したのか、という謎です。

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現在でも、明智光秀は主君殺しの不忠義者として悪人扱いされているほどです。まあ、こうした光秀の悪人像は、秀吉が自身を英雄に祭り上げるために、流布し、フレームアップしたわけですが、それはともかく。

お福の父、斎藤利三もまた山崎合戦の後、豊臣方に捕えられ、逆賊として処刑されました。こうした逆風?にもかかわらず、家康が、悪評高い光秀の重臣であった斎藤利三の娘を、わざわざ大切な跡継ぎの乳母に決めたということが、明らかに不可解なのです。

しかし、家康と光秀が裏でつながっていて、その後も家康が僧に変身した光秀を相談役にしていたと考えれば、お福の「大抜擢」も不思議ではなくなるのです。

天海僧正は家康にとって、宗教関連のアドバイザーや江戸建設の霊的コンサルタントだっただけでなく、朝廷との交渉役でもありました。そして、光秀が信長を誅殺した動機が、信長から朝廷を守ることにあったとする説もあるくらい、光秀は勤皇の徒であり、朝廷の深い信頼関係を築いていました。実際、織田信長も朝廷との窓口として光秀を使っていたのです。

その出自も謎に包まれたまま、突然歴史の表舞台に登場した無名の初老の僧侶が、なぜ家康の名代として朝廷との交渉役になれたのか?これもまた歴史の謎のひとつですが、「天海=光秀」説を前提にすれば、不思議でも何でもありません。また、天海の後を継いで、光秀の側近の娘お福(春日局)が幕府と朝廷の交渉役となったことも、ごく自然な成り行きであると納得できるのです。ちなみに、この「春日局」という名前も、お福が朝廷から賜ったものです。

もちろん、信ずるか信じないかは、貴方様次第です。

(メルマガ『富田隆のお気楽心理学』より一部抜粋)

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image by: Shutterstock.com

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