冷戦終了後も「盟主」の座を降りる術を知らないアメリカ
世界はもはや「自由陣営」vs「独裁(旧共産)陣営」に分かれてなどいない。
英紙「フィナンシャル・タイムズ(FT)」の今年1月27日号にギデオン・ラックマンが書いているところでは、実際のグローバルな影響力をめぐるレトリック(説得力)の戦いの軸は「RBIO」vs「多極化」である。
RBIOは《rules-besed international order》の頭文字で、岸田が言う「法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序」。米国が呪文のように唱えるこの決まり文句を、英メディアでは「またそれか!」という感じで頭文字で表すことがある。それに対してロシアや中国が好むのは「多極化世界(multipolar world)」だが、インドのジャイシャンカル外相が意図して使う用語は「多国間による法の支配に基づく国際秩序」で、これはその両者に橋を掛けるという同国の独特の立ち位置を表している。なお「多極化世界」論は、FT論説ではそう書かれていないが、露中の専売ではなく、インドのその変化球も含めグローバル・サウスの世界では常識である。
米国や西欧は、RBIOこそ平和と安定の元であり、領土主権と国際法、少数民族や弱小国家の権利、民主主義規範や世界貿易システムの遵守などがそこに含まれる。ところがロシアや中国に言わせればそれは偽善であり、結局、米国がルールとその運用を決定して他国に押し付ける一方、自分が都合が悪い時にはそれを無視する。
ロシアや中国の考えでは、米国のグローバル・パワーとしての衰えは必然的かつ不可避的であり、それに代わって米国だけでなくいくつものパワー中心が作動する多極化した世界が出現する。そこでは、各センターはワシントンの顔色ばかりを窺うのではなく、それぞれ自分のルールを持った諸文明として自立しつつ共存することが認められるだろう。これは、しかし米欧はそれに懐疑的で、ロシアや中国はそれぞれに自分の影響圏を確保しようとしているだけだと見る。
米欧が疑心暗鬼に陥るのも無理はない一面もあるけれども、露中の側もまた疑心暗鬼になる理由がある。例えば、1989年に冷戦が終結し、当然のこととしてゴルバチョフが東側の軍事同盟「ワルシャワ条約機構」を解散した際に、米欧がそれに応じてNATOを解散していれば――そしてそれを旧東欧から旧ソ連の一部であるバルト3国からウクライナにまで東へ東へと加盟国拡大の手を伸ばさなければ――当たり前の話だが、ウクライナ戦争は起きていない。
冷戦が終わったにも関わらず、米国は自ら「盟主」の座を降りる術を知らず、聴衆が一人去り二人去り、ほとんど誰もいなくなったというのに(いや、よく見ると隅の方にまだ日本がいたか!)、まだ演壇で大声を上げ続けているといった風情である。
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