細川先生からアドバイスをいただいたことを機に、僕はその姿勢を一変させた。その日を境に常に先生の目の前で練習をすることにしたのだ。それは単に先生に見てもらおうというのではなく、自分の練習を見せつけてやろうと思ったからに他ならない。
次の乱取り練習の日には、1本目から飛ばしていった。試合と全く同じ状況をつくるのは難しいが、試合のつもりで1本1本すべてを出し切ろうと必死に臨んだ。当然、体にかかる負荷も相当なものとなる。とにかく先のことは考えずに続けていくと、早くも5本目か6本目あたりで「もうこれ以上無理だ」という瞬間が訪れた。もうすべて出し切った、やり切ったと。
「もうこれ以上できません」
そう訴え出た。先生は僕の練習状況を目の前で見てくれているわけだから、当然聞き入れてくれるだろう。ちょっと休ませてくれるだろう。僕はそう信じて疑わなかった。
ところが返ってきた答えは「なんやおまえは。おまえはそんなもんか」という厳しいひと言だった。
一瞬動揺が走ったが、次の瞬間には「なにくそ」という意地で僕は練習を続けた。するとどうだろう。体はふらふらだったが、まだ練習を続けられるではないか。自分が限界だと思っていたものは、あくまで自分でつくったものにすぎなかったのだ。
自分の中に残された、自分でも気づかないような微かなエネルギーを振り絞ってやる練習、それこそが強くなるための練習であり、試合に勝つための練習なのだということを、僕はこの時に細川先生との短いやり取りの中で教えていただいたのだった。
そしてこの教えが僕の競技者としてのステージを大きく押し上げてくれたことは間違いない。その半年後に全日本の学生チャンピオンに勝ち上がれたばかりか、大学4年でオリンピック代表の座を射止めたからだ。
誰もが努力をする。しかし、その努力がやらされている努力なのか、それとも強くなるために意味のある努力なのかを考える必要がある。
やらされている努力というのは、意味のある努力を探し出す過程においては大事だと思う。しかし、何年、何十年経っても何も気づかぬようではいけない。強くなるためには努力が必要だが、それはあくまで最低条件でしかないことを知るべきだろう。
image by: Shutterstock.com









