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絵にかいた餅の大政奉還。討幕派とともに岩倉具視が出した「秘策」とは

前回の記事で旧500円札の顔である岩倉具視について語った『歴史時代作家 早見俊の無料メルマガ」』の著者である作家の早見俊さん。今回も引き続き、岩倉の知られざる過去について紹介しています。

旧500円札の顔。続・岩倉具視の知られざる過去

志士との交流を続けながら、岩倉は討幕へと考えを固めてゆきます。幕府に対し、孝明天皇は攘夷を断行しないことには不満を抱いていたものの、政は任せるというお考えで、幕府による長州征伐にも賛同しておられました。

慶応二年(1866)十二月、孝明天皇が崩御され、討幕派が活気づくかと思いきや、即位された明治天皇は十六歳と年若く、二条斉敬が摂政に就任しました。斉敬は親幕府で、摂政は天皇に代わって政務を代行する役目、関白よりも強い権限を持っていました。二条斉敬の摂政就任は、孝明天皇在位の時よりも朝廷が幕府寄りとなったのです。

それでも、新帝即位に伴い、翌慶応三年の正月に禁門の変に関わった公家が赦免されました。その時、岩倉は許されず十一月になってやっと許されました。十月には大政奉還があり、時代は岩倉を必要としているかのようでした。岩倉は水を得た魚となります。五年間培った知識と人脈により、討幕派の志士たちから強い信頼を得てもいます。

幕府が大政奉還したからといって、朝廷が日本の政治を担うようになったわけではありません。そもそも朝廷には政治を担う財力も組織もないのです。それを見越し、徳川慶喜は政権を朝廷に返上しました。遠からず朝廷の方から政治を担ってくれと泣き付いてくるという計算あってのことです。

実際、徳川宗家は依然として日本最大の領地を支配する大名であり、慶喜は将軍こそ辞したものの、内大臣の官職には留まっていました。このままでは大政奉還は絵に描いた餅です。そこで、岩倉は薩摩藩の大久保利通や西郷隆盛、同志である公家中御門経之、中山忠能らと慶喜に内大臣辞職と領地返納を迫る辞官納地を進めます。

慶応三年(1867)十二月八日から九日にかけて明治天皇隣席に下、朝廷内の小御所で慶喜の辞官納地と王政復古の大号令につき議論が交わされました。慶喜に辞官納地を求める岩倉たち討幕派の主張に親幕府の公家、大名たちは猛反発し議論は紛糾しました。何としても親幕派を論破しようと岩倉は奮闘します。

白熱した議論が飛び交う中、土佐の前藩主山内容堂が言った、「幼い天子を擁して数人の公家が天下を盗もうとしている」という発言を岩倉は無礼だとして威嚇し、容堂を言い負かしました。と、いう俗説がありますが、これは真実ではないようです。そのエピソードはともかく、議論百出の後、どうにか慶喜の辞官納地が決定されました。

岩倉たち討幕派の勝利と思いきや、慶喜は辞官納地を即座に実行すれば幕臣たちが騒ぐという理由で猶予を願います。討幕派は強気に即時実施を迫ろうとしましたが、京都には会津藩、桑名藩など親幕府の諸藩の軍勢が駐屯しており、戦を避けるべきという意見が討幕派の公家から上がります。

岩倉も弱気になり、慶喜が、「前内府」を名乗り、辞官納地に応じれば新政府の議定に迎えると妥協を考えます。慶喜はというと強気の姿勢を崩さず大坂城で英、仏、蘭、米、伊、普六カ国の公使を引見、王政復古後も自分が政府を代表するとアピールしました。

辞官納地は骨抜きとなり、慶喜は復権、討幕派は武力討幕の名目を失いました。そこで西郷は幕府から戦を仕掛けかけせようと幕府を挑発します。江戸で放火、略奪、殺人などを起こさせ、まんまとこの挑発に乗った庄内藩が薩摩藩邸を焼き討ちしました。この報せは大坂城にもたらされ、城内は薩摩討つべしの意見が沸騰、翌年の正月三日、京都に向け進軍しました。西郷にすればしてやったりですが、いざ、戦となりますと幕府は数で勝っています。いくら、最新式の軍備を整える薩摩長州といえど、勝利するとは限りません。いみじくも、「勝てば官軍、負ければ賊軍」と西郷が言ったように初戦の勝敗が討幕の成否を決するのです。

ここに至り岩倉は必勝の秘策を捻り出しました。岩倉村の寓居に住まわせていた国学者玉松操が提案した錦の御旗です。天皇の軍、すなわち官軍が掲げる旗、逆に言えば錦旗を掲げる軍が官軍なのです。ところが、錦の御旗が御所の中にあったわけではありません。あれば、親幕派の公家が利用していた可能性は十分あります。有職故実に通じた玉松が古い書籍を紐解き、古来使用された錦の御旗を作ってはどうかと提案したのです。岩倉はこの案を受け入れ薩長に作成させます。慶喜は徳川御三家の水戸家出身、水戸家は大日本史編纂を始めた光圀以来尊皇心の厚い家柄、錦の御旗を掲げる官軍に逆らいはしないだろうと岩倉は算段したのです。

果たして慶喜は薩長軍に錦の御旗が翻ったのを聞き、朝敵となるのを恐れ、大坂城から江戸に帰ってしまいました。岩倉の秘策が功を奏したのです。薩長土佐を中心とする官軍は錦の御旗を掲げて京都から進軍します。

御丁寧に歌まで作られました。「みやさんみやさん、御馬の前にひらひらするのはなんじゃいな。トコトンヤレトンヤレナ。あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか」トコトンヤレ節に乗り、官軍は幕府を滅ぼし、明治新政府を樹立、岩倉は右大臣として政府の中枢を担い、日本の近代化を推進、自ら団長となって欧米を視察、帰国後は征韓論を巡って西郷と袂を分かちました。

朝鮮に赴くと強行に言い立てる西郷に岩倉は一歩も引かず反対します。その胆力に西郷も感心したとか。

岩倉具視、人間五十年と言われた時代、数え三十八歳から四十三歳という脂の乗り切った時を不遇に暮らしながらも無駄にせず、飛躍の五年間にし、自分自身ばかりか明治維新の花を咲かせたのでした。

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image by: Shutterstock.com

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