西郷は「時代から降りていた」
西郷が何よりも嫌ったのは、大久保を中心とした新政府の中心人物たちの「家屋を飾り、衣服を文(かざ)り、美妾を抱え、蓄財を謀って」止まないそのハシャギぶりだった。西郷の言行録『南洲翁遺訓』にはそれを批判する一文があり、この有り様では「戊辰戦争で戦死した者たちに顔向けできない」と嘆いている。
これは全く由々しき事態で、例えば海音寺潮五郎『西郷と大久保』(新潮文庫、1973年刊)でも、西郷が参議の中でも板垣と仲がよかったのは「西郷が、何よりも板垣の物質欲のない清潔な性質と質実な生活とが気に入っていたのであろう」と書かれている。「他の参議らはいずれも生活ぶりは豪奢を極めていた。大隈などは築地の西本願寺別院のわきに豪壮な邸宅をかまえ、旧大名のような生活をしていた。井上肇や伊藤……などの人々がいつも出入り寝泊まりして、国事も談ずるが酒色にも耽り、梁山泊と称し、井上などは自ら『放蕩無頼』と言っている。こんなのは、西郷は気に入らない」
そこを捉えて先崎彰容『未完の西郷隆盛』(新潮選書、2017年刊)は書いている。
「西郷が虚飾を嫌い、質朴な人柄であったことを伝える逸話は多い。参議時代の西郷は、母屋に隣接する粗末な小屋に寝泊まりし、兵児帯を纏ったまま出勤していた。また政権論に敗れ下野してからは、農民として日々農作業に精をだした」
しかしこれは単に彼の生まれ育ち、人柄の問題ではない。西洋の事情も深く研究していた西郷は、「節操と義理、恥を知る心を失っては、国家など維持できない。この点、西欧諸国も同じで、官位にある者が国民に対して利益を争ったり、義理を忘れると国民まで同調し、たちまちのうちに利益追求に走り卑しさを増し、節操がなくなってしまう」という意味のことを言い、ナポレオン3世が普仏戦争に敗れた原因も「余り算盤に詳しき故なり」と分析している。つまり、田舎侍が急に権力と金を握って早速に浮かれまくっているこの様子は、国家存亡の根本に関わることで、この連中を叩き直すには朝鮮との緊張を高めて戦争ギリギリまで持っていくしか方法がないかもしれないと思ったのが、いわゆる「征韓論」(ちなみに西郷はこの言葉を口にしたことはなく、また武力で朝鮮に侵攻するとも言っていない)であったかもしれない。
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