ルソー、中江兆民、西郷という脈絡
このような大久保と西郷の違いを最初から見抜いていたのは、中江兆民だった。先崎は書いている。
▼兆民の見るところ、大久保は金を出して文明開化を買うべきだと考え、一日も早く日本を欧米諸国に近づけることを目指した、欧化主義の崇拝者である。こうした人物は豪傑ではあるが凡庸で、時代の流れに上手に乗ることを目指すばかりなので、時代を変える力はない。
▼対する西郷は、「非凡派の豪傑」で、結局、文明開化はわれわれ日本人に何をもたらすのか――西郷は大久保とは正反対に、滔々と流れる時代を傍から見つめ、じっと考え込む。時代に上手に乗るのではなく、むしろ時代から降りているからこそ、敏感な感受性で時代に触れて状況を正確に把握できたのだと兆民は思った。
▼その時、兆民の脳内では、常に西郷とルソーが同居していた。……兆民にとって、「欲望自然主義」=自由放任主義が生み出すのは、徹底的に個人の欲望を基準にして生きる者たちであった。そのような人々は、市場で出会う他人を競争相手としか見ない。充たされない欲望と他人との絶えざる比較、不安と嫉妬。社会の紐帯が失われ人々がバラバラとなり、自らの欲望達成を目指して互いが衝突し、争いが絶えることはない。周囲の他人にも、また自分自身にも不満と苛立ちを感じている――これが兆民が見た文明人と美運命社会の姿なのである。
▼ヨーロッパでは自由放任主義が人々の紐帯を解体し、道徳の荒廃をもたらした。この現状にルソーは激しい違和感を覚え、もう一度、人と人との理想のつながりを方を根本から探し求めた。その思いが理想の共同体を模索した著作『社会契約論』を生み出す動機だった。
▼これを読み解く際に、兆民の精神の根本に浮かぶのは『孟子』の「浩然の気」の概念である。一切の束縛から解放され、自己内省はもちろん、天地にも恥じることのない自由な精神が浩然の気で、それは仏語で言えば「リベルテーモラル(心思の自由)」である。欲望や時代状況に翻弄されない陽明学的人間像がルソーの道徳論とピタリ重なるが故に、同書は明治早々のベストセラーとなったのである。
▼経済上の自由が生み出すせわしない文明人と文明社会への警戒感、それによって失われていく道徳的なものへの注目と危機感――これらを西郷・ルソー・兆民の3人は、深く共有していた。まぎれもなく彼らは「近代」文明を懐疑していたのである……。
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