先日掲載の記事で、西郷隆盛を切り捨てることで反革命へと変転した明治政府が、「大日本帝国」への道を爆走し始めたと結論付けたジャーナリストの高野孟さん。その西郷については「時流の波に乗れず新政府から去らざるを得なかった」との見方も存在しますが、はたしてそれは正確な評価なのでしょうか。高野さんは自身のメルマガ『高野孟のTHE JOURNAL』で今回、その言説について詳細な検証を試みています。
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※本記事のタイトルはMAG2NEWS編集部によるものです/メルマガ原題:西郷隆盛という「大矛盾」にさらに分け入ってみよう/先崎彰容『未完の西郷隆盛』を読む
プロフィール:高野孟(たかの・はじめ)
1944年東京生まれ。1968年早稲田大学文学部西洋哲学科卒。通信社、広告会社勤務の後、1975年からフリー・ジャーナリストに。同時に内外政経ニュースレター『インサイダー』の創刊に参加。80年に(株)インサイダーを設立し、代表取締役兼編集長に就任。2002年に早稲田大学客員教授に就任。08年に《THE JOURNAL》に改名し、論説主幹に就任。現在は千葉県鴨川市に在住しながら、半農半ジャーナリストとしてとして活動中。
西郷隆盛という「大矛盾」にさらに分け入ってみよう/先崎彰容『未完の西郷隆盛』を読む
前回では、主に渡辺京二の『日本近代の逆説』を紹介しつつ、明治6年政変で同じ薩摩出身の大久保利通と西郷隆盛が決別し、その大久保は伊藤博文ら長州派と結んで専制体制の確立へと突進を開始。他方、西郷は郷里に帰り4年後の西南戦争に備え、同時に野に下った土佐の板垣退助は翌年「愛国公党」を立てて自由民権運動を激発させ、肥前の江藤新平も愛国公党に加わりつつ翌年に佐賀の乱を率いて処刑されたので、この時点で「薩長土肥」が主導したと言われた「維新」は終わったのだと述べた。
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「薩」と言っても西郷が去れば大久保だけでそれを代表させる訳にはいかない。「土」も「肥」も輝かしい人物はいなくなり凡庸な人ばかりとなり、纏まって残ったのは「長」だけ。その意味でも維新はそこで終わったと捉えるべきだろう。
講座派マルクス主義の歴史家、丸山眞男のような近代主義者、司馬遼太郎などがみんなおかしいのは、ここで早くも維新は脱線・転覆したのだとは考えず、そのまま伊藤や大久保が近代化、西欧化、帝国化への線路を走り続けたことが歴史の必然であったかの物語を紡いできたことである。その立場からすれば、時流の波に乗れずに脱落したのは西郷たちだったことになるが、本当にそうか。
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