近年、SNSで「承認欲求」という言葉が話題となり、多くの人がマズローの欲求段階説に触れる機会が増えました。自己実現や他者からの承認を求めるこの理論は多くの人に共感されていますが、実は見過ごされがちな落とし穴が存在します。自己改革小説の第一人者である喜多川泰氏は、その一例としてボランティア精神に注目し、無償の奉仕が必ずしも承認欲求に基づいていないことを指摘。マズローの法則を超えた人間の本質について、深く考えさせられる視点をメルマガ『喜多川泰のメルマガ「Leader’s Village」』で伝えています。
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マズローの欲求5段階説の落とし穴
「夢を叶える」「自分のやりたいことをやって生きる」
そう願って生きる人が、学びの世界に入ると、比較的早い段階で「マズローの5段階の欲求」なる考え方と出逢います。
僕が最初に知ったのは大学の授業だったかな。おそらく皆さんもご存知だと思うので、説明はサラッとにしておきます。
マズローによると、人間の欲求というのは5つの段階に大別されていて、下層の欲求が満たされて初めてその上層の欲求が生まれてくる、もしくは、上層のことを実現したいと思える余裕が生まれてくるというもの。下から順に、「生理的欲求」「安全欲求」「社会的欲求」「承認欲求」「自己実現への欲求」。それぞれ呼び方はいろいろある(例えば「社会的欲求」は「集団と愛への欲求」と言われたりもする)けど、「そういうことになってる」と教わると、なんとなくそんな気がしてくる。
そして、
「なるほど、そういうことになってるのね」と受け入れて、「自分は今どこかしら」と確認してみたりする。
「衣食住に困っていないし、まあいろいろあるけど安全な方かな。会社に所属しているし、愛すべき家族もいる。でも会社から必要とされているようにあまり感じない。家族からもあまり「ありがとう」という言葉をかけてもらっていない。そうか、私は私を認めてほしいのね!承認欲求だわ。それが満たされなければ、自己実現への道を歩むことはできないのね!」
とかね。
権威的知識は人をそこに縛りつける力がある。権威じゃなくとも、人は「みんなそう言ってる」に弱い。「あの偉い人が言ったから絶対そうだ!」「みんなそう言ってるから間違いないだろう」と思い込んでしまう。
知識が人の人生を豊かにするなら大歓迎だ。でもこの知識が多くの人にとって「非行動」の「言い訳」に使われていることを思うと、知識というのはそれ自体が大切なのではなく、それをどう使うかを学び続けなければならないと痛感する。
ある地域では町内会の組長は住民が順番にやることが原則となっている。隣の家がやったら、翌年は自分が組長をやらなければならない。いろいろ忙しいのはみんな同じだからと思って引き受け、一年頑張ったあと隣に引き継ぎに行くと、「うちはそういうの無理。仕事してるから」仕方なくその隣に行くと、「うちは無理。ワンちゃん飼ってて目が離せないので」しょうがなくその隣に行くと、「順番で言えばうちは3年後でしょ。前の二軒がやってからじゃないとやらないよ」なんて言われる。
そんな経験をしたことはないだろうか。
彼らは五段階どころか、町内会の組長をやる上で、クリアしなければならない段階が「早期リタイヤ欲求」「ワンちゃんの世話欲求」「大変なことはできるだけ最後に欲求」の先にある。他にも500段階くらいありそうだ。
ある本には、「マズローは亡くなる直前、実はその先があると言った。自己超越の欲求だ」と書かれていた。要は自己実現が満たされた後は、誰かの役にたつ自分でいたいと思うようになり、それこそが最高の幸せであるということだ。
僕はその場にいなかったしマズローではないから、彼がどう考えていたかはわからない。でも、自分で発表したはいいが「本当にこれでよかったのかなぁ」とちょっと自説が揺らぐような事例がいくつかあったんじゃないかと想像できる。
というのも、これを考え出したプロセスは、「自己実現をするために」というのが最初の目的としてあったように思うんですね。「自分のなりたいものになる。ほしいものを手に入れる。それが幸せな人生だ」という大前提ありきで、そこに到達するためには何をクリアしていかなければならないのかというゴールに向かって創り出した説のように僕には思える。
でも、その大前提が違っていたら…
例えば「今の自分のお金のために」という価値観以外に、「未来の誰かの幸せのために」という価値観で生きている人だっている。その人たちの方が幸せそうに生きているように見えた、といった事例は実際にあっただろう。明治になり開国したばかりの日本にやってきた欧米の人たちは、みな一様に驚いたという。それは、日本人が他のどの国の人たちよりも、幸せそうで満ち足りているように見えたからだ。
ところが、彼らはそれが信じられない。
なぜなら、日本人はみな貧しかったから。「人よりも楽して儲かる。多くを持っている。それが幸せ」という価値観しか知らずに生きてきた人にとって、幸せというのはたくさんのものを手に入れた後にやってくるものだ。「未来の誰かの幸せのために、今日、誰かの役に立つためにできるだけのことをする。それが幸せ」という価値観で生きる人を見るのは驚きだったでしょう。それこそ、生理的欲求すら満たされてないのに幸せそうに生きている人たちがそこにいたわけです。そりゃぁ驚きますよね。
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