ナレーターが書籍を読み上げた音声を、データとして聴くことで「本を読まずとも本を読むことができる」サービス、オーディオブック。メルマガ『Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~』では、著者で文筆家の倉下忠憲さんが、以前から愛用していたポッドキャストや紙の本と、オーディオブックの違いについて語っています。
本を聴くということ
最近、Amazonのオーディオブックサービス「Audible」をよく使っています。移動中など、耳が空いているときは何かしらのオーディオブックを聴いている生活です。
最初の一冊に選んだのが11時間40分ほどの大著だったので、読了(視聴了)にかなりかかりましたが、それが終わって他の本をぱらぱらと聴いてみたことで、「本を聴くこと」について考えが深まりました。
今回はその辺のお話を。
■メディアの対比
私の情報摂取において、オーディオブックは以下のように位置づけられます。
・本を読む
・本(オーディオブック)を聴く
・ポッドキャストを聴く
行為の対象としては、「本を読む」と共通点があり、行為の内容としては、ポッドキャストの視聴と共通点があるのが「本を聴く」です。
このように共通点と相違点を意識することで、それぞれのメディアの性質が浮かび上がってきます(あくまで倉下にとっての、ということですが)。
■ポッドキャストとの違い
まず、オーディオブックを聴きはじめて最初に実感されたのがポッドキャスト視聴との違いでした。
ぜんぜん意識していなかったのですが、ポッドキャストを聴いているとき私はよく「一時停止」を押します。たとえば、ナレッジスタックのインタビュー・ポッドキャストを聴いているときなどに、二人が何かやりとりし、そこに「面白いこと」が含まれていると感じたら、いったんそこで止めるのです。
で、止めたあと、そのことについて「自分の頭」で考えます。これは独自の思考を行うといった意味ではなく、単に脳内で(空で)語られていたことについて考えを進めるという意味です。
視聴内容の余韻を漂わせながら、どんな風に自分が考えているのか、その考えはどう発展していくのかを思索する。そういうイメージです。
仮に15分散歩するとして、最初の5分で停止して、残りの10分は自分なりの思索につとめる、なんてことも珍しくありません。だから1時間の配信でも、視聴了になるまでには1週間くらいかかることもあります。
もちろん、すべての番組を同じように視聴しているわけではなく、開始してそのまま最後まで一気に進む場合もあります。でも、多くの場合は上記のような一時停止が頻発します。
ここから窺える事実は、なんでしょうか。
それは、私はポッドキャストを「自分が考える素材・触媒」として聴いている、ということです。目新しい情報や最新のニュースが知りたいわけではなく、何か「考え」が進む刺激・インスピレーションを欲して視聴しているからこそ、頻繁に聴くことを止めているのです。
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■オーディオブック
では、オーディオブックではどうかというと、まったく止めません。止めることを自らに禁じているとかではなく、止めようという気持ちが起こらないのです。
もちろん、アプリのUIなどが一時停止をアフォーダンスしない設計になっている、という可能性もありますが、もっとラディカルな要因がそこにはありそうです。
たとえば、ローティの『偶然性・アイロニー・連帯: リベラル・ユートピアの可能性』を聴いていたときは、基本的にぜんぜんわかりませんでした。
第一に文が長い──複文が多い──ので、文の意味を取るのに精一杯であり、それ以上の構造を捉まえるのに頭がまわらない、という点があります。
第二に議論が長いので、それまでどんな議論が行われていたのかを随時忘れていき、議論の全体像を把握することができない、という点もあります。
なんにせよ、「わからない」ので、「それについて考えること」もできません。言い換えれば、ポッドキャストを聴いているときは「一家言モジュール」が随時起動していたのに対して、『偶然性・アイロニー・連帯』を聴いていたときは、そもそもそうしたモジュールが欠落しているので起動しようもない、という感じです。
結果、ポッドキャストを聴いているときのような「聴くことで、考えが生じる」ということがないまま、「ただ聴く、聴き続ける」という状態になってきます。
■難しい本を読む
じゃあ、それがネガティブなことなのかと言えば、別段そういうわけではありません。
たとえば、西田幾多郎の『善の研究』を読んだときは、まったくぜんぜんわかりませんでした。わからないままに、五里霧中を、一歩一歩前に進んだ読書だったのです。ともかく足を止めない。細かい意味にもこだわらない。前に進むことだけを意識する。
そういう読み方をしていると──これを「読んでいる」と呼べるのかは別途面白い議論ができそうです──、ある時点で「なんとなくわかる」感覚が生まれてきます。議論の骨子を明瞭に捉まえたわけでもなく、また自分の言葉で他人に説明できるわけでもありません。でも、西田が言わんとしていることはこういうことなのではないか、という「感覚」が育まれるのです。
西田幾多郎の著作だけではなく、哲学書の多くは同様の読み方がスタートになりますし、もっと言えば自分が不慣れな・新参者である分野の本を読むときも同じです。そういうときは、「わかる」ことに固執するのをいったん諦めて、ただ読むことをするのが最適解だったりするのです。
そういう「意味もわからずに読む」ということを続けていくと、どこかの時点で「わかる」が後からやってきます。遡及的に。
小さい理解を段階的に積み重ねるのではなく、「わからない」に身を浸しているうちに、急に「わかる」が相転移的に生じるのです。
逆に言えば、そうした「わかる」に至るためには、ある期間「わからない」に身を浸している必要があるのです。
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■再びオーディオブック
オーディオブックで本を聴くと、強制的に上のような状態になります。一文の意味がわからなかったとしても、強制的にナレーターが次の一文を読み上げ始めます。その繰り返しで、どんどん本は前に進んでいきます(進んでいるのは自分なのか、本なのかはわかりませんが)。
そこでは、「些細なこだわり」は顔を出している余地がありません。「わからなくても、前に進む」というある種の乱雑さが発揮され、神経質さは引っ込まざるを得なくなるのです。
当たり前ですが、そういう聴き方で得られる「わかる」は、精読して得られる「わかる」とは、ぜんぜん違うものでしょう。オーディオブックで視聴了したからといって、「その本を読んだ」とは言い難いものですが、そんなことを言えば、私が『善の研究』を読んだと言えるのかも同様に微妙なところです。
「門前の小僧習わぬ経を読む」という言葉がありますが、ただ聴いているだけでも頭にしみ込んでいる要素というのはあるものです。
考えてみてください。誰かの語りを11時間40分聞いたとしたら、そこに何かしらのパターンや傾向を脳が知覚することは、ごく自然なことでしょう。たとえそれが3時間であっても同じです。聴くだけで捉まえられるものはたしかにあります。
よって、私の位置づけでは、難しい哲学書をオーディオブックで聴くことは、紙の本をわからないなりに読み進めるのと同じポジションにおけそうです。逆に、読みながら考えるような本の場合では、頻繁にストップせざるを得ないでしょうし、その際に「メモ」をどうしたらいいのかで悩むことになりそうです。
また、普段読書中に「メモ」を取らない小説などであれば、そうした悩みからは開放されますが、今後はもっと早く進めて欲しいという感じが強くなってきます。
そういえば、聴くことと比較してわかったのですが、私は小説を読むときめちゃくちゃ早くページを繰っているようです。おそらくそれは、単に速度が速いだけでなく、意味解釈する部分を省略している要素が関わっているはずです。つまり読み飛ばしている部分がある。
だから、読み上げの速度を1.2倍にすればいいんです、という解決策ではマッチしません。そもそもやっていることが違っているからです。
■さいごに
というわけで、オーディオブックという新しいメディア体験が得られたことで、結果的に「本を読むとはどういうことか」についての理解が詳細になりました。なかなか楽しい体験です。
よって、しばらくはオーディオブック・ライフを送りたいところなのですが、その割合が増えるほど、ポッドキャストを聴く時間と音楽を聴く時間が減ってしまいます。
個人的には後者が強い懸念点で、音楽がない人生なんて、という感じで生きているので、どこかでバランスを取る必要はありそうです。
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