スマホアプリなどのデジタルツールでスケジュールを管理している人が増えているなかで、なぜか今「紙の手帳」の売上が回復してきているそうです。メルマガ『Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~』の著者で文筆家の倉下忠憲さんは、自身もアナログのツールを捨てたことはないとして、アナログツールを使うことの重要性について語っています。
アナログな「紙のノート」をいま使うということ
紙の手帳の売り上げが回復している、というニュースを聴きました。デジタル化が進む社会において──なにせDXが騒がれています──、なぜそんなことが起きているのでしょうか。
思春期特有の反抗的行動、あるいはラッダイト運動的要素ということもあるのかもしれませんが、それ以外の理由もいろいろあるはずです。
アナログならではの
私もさんざんデジタルツールを使いながら、アナログツールを捨てたことはありません。アイデア出しや自分の考えをまとめるときなどはノートやコピー用紙を引っ張り出してきます。もしこうした道具たちがなければ、執筆作業の困難さは三割増し(当社比)だったでしょう。
しかしながら、思い返してみると、上記のような用途は「デジタルツールでは役不足なので、必要に応じてアナログツールを使う」という形であり、言ってみれば主要なツールはデジタルで、そこで埋まらない穴をアナログツールで手当てする、という構図です。
しかしながら、ここ一年ほど、具体的には今年の2月くらいからMDノート(A5サイズ)で読書日記などの「Knowledge Walkers手帳」を書きはじめ、先月には同じくMDノート(新書サイズ)で着想メモを書きはじめました。
これらは知的生産活動においてデジタルツールの穴を埋めるものではありません。
Knowledge Walkers手帳は、純粋に趣味的な(あるいは活動支援的な)ものですし、まったく同じ内容をデジタルツールに入力が可能です。
同様に着想メモ帳も、基本的にはずっとデジタルツールで、具体的にはEvernoteからはじまり、さまざまなツールを転々として直近はWorkFlowyに落ち着いている「インボックス」的使い方として運用していたものを、「わざわざ」アナログのノートの置き換えたものです。
極端なことを言えば、能率・効率という観点から見て、「劣った」やり方をしています。効率性至上主義の人はぜったいに許容できないやり方でしょう。
一方で私はというと、なんだかな懐かしいなという気分と共に、このやり方は手放さない方がいいだろうという思いを強めています。
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デジタル化した社会
デジタル化しつつある社会において、なぜアナログツールが有用なのかと言えば、社会がデジタル化しつつあるからです。
社会の大半が紙情報で埋め尽くされている環境において、デジタル化は間違いなく福音でした。野口悠紀雄氏がノウハウ紹介で活躍していた時分は、そうした気分のピークだったでしょう。
一方で、もはや何もかもがデジタル化しています。一部の特殊な職場を除けば、デジタルで情報入力することは当然で、最近では外食店のメニューですらもタブレットです。どこを向いても、デジタル情報。
そのような環境においては、情報をアナログツールで扱う、という行為それ自体が特異なもの、差異を持つものになります。手で文字を書いているだけで、「いつもと違ったことをしている」気分になります。気持ちのリフレッシュが発生するのです。
それだけで十分使う価値はあると言えそうです。
手持ちの道具
もう一つ、別の視点から考えてみます。それは売れているのが紙の「手帳」という点です。
ここで言う「手帳」は、日常的に携帯してスケジュールを書き込む道具のことであり、しかもその手帳がいわゆる”ライフログ”として愛好されている、という話をよく聞きます。
日常的に携帯して、情報の管理・整理を行う道具。
デジタル社会において、この表現でまっさきにイメージされるのは「スマートフォン」でしょう。この機器がやっかいなのです。
とは言え、それぞれの端末が悪いわけではありません。言い換えれば、小さなモバイル・デジタルガジェットを携帯することがやっかいなのではありません。そこにさまざまな要素が付与され、その全体で形成される系がやっかいなのです。
具体的には、携帯可能なモバイル・デジタルガジェット+インターネット+人間関係をベースにした即応性の高いプラットフォーム+煽りをターゲットにするメディア、の組み合わせが好ましくない影響を人間の精神に与えます。
スマートフォンと手帳は、似たポジションを争う道具だからこそ、手帳と向き合っている間は、スマートフォンと距離を置くことができます。そのとき、きっと感じるものがあるのでしょう。ああ、楽だな、というような解放感が。
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逸脱
また少し違った視点から。
たとえば手帳の月間カレンダーページを開けてみましょう。見慣れた表組みがそこには並んでいるはずです。
では、デジタルカレンダーはどうでしょうか。スマートフォンで開くと、手帳のような閲覧性は得られません。現状のスマートフォンでは「開いて、見開きとして使う」は実装されていないからです(将来的にはどうなっているかわかりませんが)。
それでもタブレットやパソコンで開けば、手帳と似たような閲覧性は得られます。では、その二つは等しいのでしょうか。
「日付の中に予定を書いているだけ」
という条件であればその二つは等しいと言えます。しかし、その条件が変わってくると、二つのツールの等価性は崩れます。
たとえば、紙の手帳にはマス目にイラストを書くことができます。あるいは、色付きのシールを貼って、何かのログを示すこともできます。試験日までの日を、一日過ぎるたびにバツ印をつけて、残りの日数を意識することもできます。
そのような表現に比べれば、デジタルカレンダーができることは極めて限られています。もっと言えば「貧弱」としか言い様がありません(この点を意識しているのが、Hey Calendarです)。
さらに、です。
紙の手帳では、表組みの欄外に記入することができます。たとえばどこかの日付マスまで矢印を伸ばし「ここら辺から寒くなるから注意」という自らへのコメントを書き込むことができます。そのコメントはあきらかに「予定」ではないので、欄外に置くのが適切な「表現」ですが、デジタルカレンダーではどうあっても「予定」として欄内に入力するしかありません。
最近のGoogleカレンダーは、タスク機能の統合によって「予定」+「タスク」の二軸の情報が扱えるようになっていますが、情報の表現という観点から見れば、まったくもって紙の手帳には叶うレベルにはなっていません。というよりも、規定の入力以外のことができない、つまり「遊び」がないのです。
もちろん、予定の繰り返しや他の人との共有、クラウドでのバックアップなどさまざまな「情報的機能」はデジタルカレンダーの方が強力です。たしかにそうした機能は「予定管理」という目的ではたいへん役立つでしょう。
だからこそ、現代の人々は紙の手帳を「予定管理ではない用途」で使っているのだと思います。予定管理はデジタルカレンダーで完璧、だからそれで終わりとするのではなく、それらでは取りこぼしてしまう情報を拾い上げるために紙の手帳を使うというわけです。
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実がある
紙の手帳やノートを使うことで、スマートフォンと距離を置くことができ、またさまざまな表現の「遊び」を取り戻すことができる。
さらにそこに書き残された記述は、まぎれもなく「自分の人生」に関する記述です。お得なセールス情報でも、受け手の劣等感を煽ってくるプロモーションでも、どこのだれかともわからないビッグデータでもありません。
SNSや各種コミュニケーションツールに入り浸っていると、非常に楽しい時間を過ごせますが(≒脳が活発に反応していますが)、何が「手元」に残るかといえば、ほとんどないわけです。ただデータが生成されただけ。
それは、物(マテリアル)を通じて世界を認識することで生き延びてきた生物にとっては、虚しく感じられる行為でしょう。
もちろん、情報や知識を大きなスケールで扱うためには、そのような物性は邪魔でしかありません。そこからの開放こそが、情報や知識を扱う上での主要な課題になるはずです。
一方でそうした営みは、人の生を形成する要素ではあるものの、人の生そのものや全体ではありません。
人の生の全体は、情報や知識の扱いだけでなく、他人との(エモーショナルな)関係や自分との向き合いといったさまざまな要素で構成されているはずです。
「効率的であることが重要だから、効率の観点から見て劣るものは、自分の人生に入ってきてはいけない」という考え方は、率直に言って人の生そのものから豊かさをはぎ取るように思います。
もちろん「効率的」なものが悪いわけではありません(Googleカレンダーのリピート機能にはたいへん助けられています)。効率的なものだけで人生を満たすという「効率的」な考え方に不足がある、というだけです。
他にも、アナログのノートを使う「嬉しさ」はいくつもあるわけですが、今回はこの辺でお話をしめておきましょう。また別の機会にでも、いろいろ考えてみます。
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