MAG2 NEWS MENU

休職4回、退職4回。うつ歴12年のサラリーマンが綴った心の病歴

GWに向けて、心の病に悩む人が増えていきます。メルマガ『うつの技術(サラリーマン版)~まだ辞表は出さないで!』では、うつ病歴12年の著者が、うつ病のリアルな日常について綴っています。ひょっとしたら自分も……という方は購読してはいかがでしょうか?サンプルも必読です。

「社会人二年目の異変~何かが狂ってきた」

「とにかく環境を変えよう」

私は社会人二年目になる直前(2001年3月)に、職場の近くに引っ越そうと思い、江戸川区の西葛西で一人暮らしすることにした。とにかく、通勤電車を避けストレスを軽減しようと思ったのである。

しかし。

実際にはそんな期待などいとも簡単に裏切ってくれた。残業時間がより増えたのである。引っ越ししてからというもの、帰りはほとんど終電(午前12時5分)となり、夕食はオフィスで菓子パンを食べる、という生活を余儀なくされたのである。

私は引き続き、3つのプロジェクトを抱えていた。

そのうちの一つの仕事として、社内ユーザーの要件をヒアリングしモデル化する、という内容の仕事があった。私は、その仕事が苦痛で仕方なかった。何故なら、経験したことのない営業部門の仕事をまず把握しなければならず、当時の私としてはかなりハードルの高い仕事だったのだ。

私は、その仕事に全くついていくことが出来ず、会議でも全く発言できなかった。さらには、会議中はおろかデスクでもひたすら貝のように口を閉ざすようになってきたのだ。本来であれば、分からない部分は積極的に先輩や上司に聞くべきであろう。しかし、そもそもどこから質問すればいいのかが分からない。分からないところが分からないのである。

次第に、そのような無能な自分に嫌気がさしてきた。そして、激しい自己嫌悪に陥り、「この世で一番仕事ができないのは自分だ」という確信すら持っていた。その頃は、もう誰とも顔を合わせたくなかったので、お昼ごはんもこっそり一人で食べ、オフィスに出入りする時も出来るだけ人と会わないように裏口のエレベーターを利用していた。

会社と家を往復するだけの毎日。休日は頑張って気晴らしをしようとするが、気晴らしどころか焦りしか残らなかった。日曜の17時ごろになると、すさまじい憂鬱が襲いかかってくる。そして、月曜の朝が来て、5連勤がスタートする。それがもはや生活の全てだと思い込み、「それに従うしか自分の選択肢はない」と考えていたのだ。

しかし一方では、そんな生活を何とか抜けだしたいと痛切に感じていた。その一つの方法として考えていたのは、「海外留学」。当時23歳であった私は「海外留学」すれば人生は変わるはずだ、と思い、そのための資金を必死で貯めるようになった。しかし、その要望を彼女に相談すると、ことごとく却下された。その理由はただ一つ。留学する目的が明確ではなかったのである。私が単に現状から逃げだしたいと思っていることは彼女もお見通しなのである。

不眠のはじまり

引っ越ししてから約一ヶ月経った5月初旬のことである。ある異変が起こった。ゴールデンウィークの最終日に私は一睡も出来なかったのである。寝ようとしても全く睡魔が襲ってこない。逆に、翌日以降の仕事のことを考えると興奮してしまい、ますます目が覚めてしまう。そのうちに外が明るくなり、結局一睡もできないまま朝を迎えることになった。大学受験で苦しんだ以来の不眠症が再発したのである。
しかも、今回の不眠症は完全に一睡もできないのだ。月曜の朝から疲労感満載で出社し、激務をこなしながら、仕事だけの一週間を終える。さらに、その週末の日曜日の夜も眠れない。このゴールデンウィークを境に私は「日曜日の夜は完全徹夜」というのが私の生活スタイルとなってしまった。その結果、慢性的に疲労がとれなくなってしまった。

私はその頃からダラダラと続く人生の下り坂を下っていたようだった。それは目には見えないけれども、確実に私を蝕む下り坂であった。

「日曜不眠」が続く中、私の異変を助長するような出来事が起こった。「彼女」と温泉旅行に出かけたときのことである。
私たちは、砂風呂を入浴することにしたが、そこで私は元来のストイックさを発揮したのであろうか、限界まで砂風呂に入ってしまい、脱水症状を起こし転倒。
さらに、脳しんとうを起こしてしまったのだ。一時的に意識を失っていたようで、すぐに私は救急車に運ばれた。幸いなことに記憶はすぐに回復したが、転倒した前後の短期記憶が吹っ飛んでいたため、東京に戻ってから念のために脳外科病院を回って、精密検査を受けた。
MRIの結果は何の問題もなく、外傷もほとんど治ったので、身体的には何も問題はないだろうと安堵していた。

しかし、そのアクシデント以降、人生の下り坂の傾斜が急に激しくなった。頻繁に胃炎を起こしたり、理由もなく吐き気が私を襲ったり、頭痛がしたりという意味不明の諸症状が起こるようになったのだ。恐らく、身体が悲鳴をあげていたのであろう。しかし、私はそのシグナルに気づいていないフリをして、身体にムチを打って頑張って会社に張り付き、仕事に取り組んでいた。

>>次ページ 手に負えない絶不調

手に負えない絶不調

その年の11月頃、症状がますます悪化するようになった。会社のデスクにいるだけで時々吐き気が襲ってくる。慢性的な頭痛。そして胃腸がむかむかする。そのように、体調不良の状態が続いたので、ついに私は会社を休みがちになってしまった。そのときは誰にも相談できず、全ての問題を一人で抱え込んでしまったのだ。

その時、「私はひょっとしたら『鬱病』なのではないか?」と思うようになった。

時間があれば本屋に行き、鬱に関する本を手に取って読んでみた。しかし、どの本も結局伝えていることは共通している。

「うつ病は脳内シナプスの欠如から生じる病気なので、とにかく病院へ行くこと。」

「うつ病は几帳面、真面目で責任感が強い人がかかりやすい。」

「うつ病は優秀な人がかかりやすい」

という言葉すらあったが、私を慰める言葉としては全く機能しなかった。

逆に、そんな言葉しかないことにショックを受け、ただただ無力感が襲うばかりであった。

仕事はまだ落ち着きを見せない。いや、落ち着きどころか忙しさが益々激化していく。
ある日、別のプロジェクトでの会議が終わった後、そのプロジェクトに関わっているコンサルタントの方にこう言われた。

「君、ちゃんと眠れてる?顔色がとても悪いよ。」

私はすかさず、こう切り返した。

「大丈夫です。あまり寝ていませんが、あはは。」

と空返事すると、

「ちょっと病院に行った方がいいかもしれないよ。精神科に。」

精神科?

その時になって初めて、自分が客観的にどう思われているのかが分かった気がした。メンタルを病んでいるように見えているのだ。それはそうだろう。過度の睡眠不足と蓄積していくばかりの仕事。それらを解消する術はまだ自分の力では見つからず、全く覇気を失ってしまったのだ。

弱っているときにやってくるモノとは?

そんなある日。私はひっそりと一人でランチを食べていると、生命保険のセールスのおばちゃんがやってきた。保険の勧誘である。

私は完全に人と話すことを拒絶していたため、相手にもしていなかったのであるが、何故かそのおばちゃんは、何度も私に話し続けてくる。完全なる負のオーラをまとっている私は絶好のカモかもしれない。

ところが、私は誰かに自分の状況を聞いて欲しくて、今の自分の境遇を口に出していた。すると、そのおばちゃんは一つのパンフレットを取り出し、私のデスクにそっと置いた。

「やっぱり保険の勧誘かよ!」

と心の中でなじりながら、そのパンフレットを見てみると、保険関係のものではない。

「え?」

私は動揺した。そのパンフレットには、「ヒーリングセミナー」という文字が浮かんでいた。瞬間的に「あ、やばい!」と思った。スピリチュアルや新興宗教系、ネットワーク系の勧誘だととっさに思った。

――――――しかし。

結果的に私はそのセミナーに参加した。それ相応のお金を支払って。そして、私はここからドップリとこのセミナー集団に依存するようになってしまった。勿論、それ相応のお金を支払って……。

そのセミナーに初めて参加したのは、2001年12月1日。そして、2001年12月18日に私は「約3週間の療養が必要」という診断書を医師からもらい、翌19日から人生初めての休職を味わうことになった。今思えば、そのセミナーはすさまじい影響力を私に与えた。それほど素晴らしいセミナーだったのかどうか、私は未だに答えられない。

しかし、これだけは言える。

初めての休職は……単なる「時間稼ぎ」にすぎなかったのである。

「初めての休職~なかなか復職できない現実」

>>次ページ 失敗を余儀なくされる休職

失敗を余儀なくされる休職

2001年12月19日から私はサラリーマン人生初めての「休職」を経験することになった。ここで、それ以前のことを少し簡単にまとめてみます。

休職が決定した当初は、それまで縛られていた「会社」という存在から逃れられることが嬉しくて、一人であちこちに外出していた。上野の美術館、吉祥寺などに行ってみたり、ボクシングジムに見学したり、とにかくこれまで出来なかったことを全てやってみようと思った。

しかし、その合間にうつの影が忍び寄って切る。それは、いつやってくるか分からないモンスターのようであった。そして、休職が明けるまでに何か変わらないといけないという焦り。それらを払拭するかのように、私は必死に「自分のやりたいこと」を積極的にやろうと頑張った。

これだけでざっと40万円くらいの出費である。休職が始まるやいなや40万円も一気にぶち込んだのだ。今までの自分のふがいなさを取り消し、自信を取り戻すためだろうか、私はこの休職期間中に一気に「もっと向上した自分」に変わりたいと思っていたのだ。

当初は3週間の休職期間予定であり、年が明けた1月8日に復職する予定であった。しかし実際には、そんな短期間で劇的に改善されることはなかった。何故なら、抗うつ剤や抗精神剤の服用が効果を発揮するのは1~2週間必要だからである。

この当時は、今ほど「うつ病」という病気が認知されていなかったため、どうしても周囲には言いづらかった。そのため、インターネットという閉ざされた世界の中で情報を交換する、というのが一番信頼できる情報交換方法であった。今のように、「メンタルヘルス」という言葉すら確立しておらず、ましてや「リワーク」などの充実したメンタルヘルス制度は日本企業の中ではほとんどなかったのだ。いわば、私は「うつ」のパイオニアであったと言えるのかもしれない。

さて、私は、やはり3週間では治癒できなかったので、「休職期間を延長してもらいたい」という旨を伝えるために、会社に行くことにした。会社に向かうまで、私はその風景に違和感を感じていた。約3週間ぶりの会社は、それまでとは全く違うビルのように思えた。街行くサラリーマンが全く異なる人種のように思えた。

ふと、「本当にここに戻れるのだろうか?」と思った。

会議室の中、緊張しながら上司と相談をした結果、一カ月の休職期間の延期が認められた。その足で、職場にある自分のデスクに戻り、追加の引き継ぎをして早々に帰宅した。

肩の荷が下りたのは確かだが、一方では「自分一人いなくとも会社は回っていくんだ。」
という無力感を強く感じた。

一カ月の休職期間の延期。この事実は嬉しい反面、不安を助長させた。というのも、平日に家にいることに対する孤立感。そして、社会的居場所を失ったという喪失感が半端なく私を襲ってくるからだ。

―――――――そんな時。

また、ヒーリングセミナーからの案内が来たのだ。

>>次ページ ヒーリングセミナーにはまる私

ヒーリングセミナーにはまる私

私のもとに届いたパンフレットを何気なく読んでみた。

「2002年、リレーションシップにとって、多くを学び、癒し、前進する時です。リレーションにとっての『幸せ』は私たちの共通の目的であり私たちがこの世界に与えることのできる、最大の贈り物であります。
人間関係は、私たちの中のまだ癒されていない部分、誤解されている部分、幸せをブロックしている部分を常に見せてくれます。
そこに気付きと癒しを与えることは、最も早い成長・成熟への道といえます。癒しとは、あなたが価値ある存在として回復し、悲しみや問題から自由になること。

自分自身を癒し、『真実、幸せなリレーションシップ』への人生へと……」

どうしよう!! どんどん「ヒーリングセミナー」にはまっていく自分がいる!!しかも、この「ワークショップ」は3日連続で行われる予定で、値段もなんと94,500円もするのである。

「高い!!高すぎる!!」

しかし。

私はこのワークショップに参加することを即決した。何故なら、私には背に腹は変えられないという切実な思いがあったのである。当時の私には、お金よりもとにかく何かにすがりたかったのだ。

「誰か私を救ってください!!」

という切ない願望だけが先走っていたのである。

結局、私はその金額を支払って、2002年1月12日~14日までの3日間の「ワークショップ」に参加した。その「ワークショップ」後、自宅でしばらくの間私は茫然と日々を過ごしていた。そして、突然、「一人旅に出よう」と思いついたのだ。
「旅に出ることで何かが変わるかもしれない。」とごく淡い期待を抱いていたのだ。

そこからの行動力は早かった。とるものもとりあえで、私はその日の秋田行き深夜バスに乗り込んだ。

それからの10日間。私は一人で東北をいきあたりばったり周遊していた。「青春18きっぷ」を使って移動したため、移動手段はローカル電車である。そのルートはこのような経路である。

●秋田→盛岡→仙台→松島→山形→新潟→佐渡→東京

今、振り返ると不思議に思うことは、

「何故、山形まで一人旅に出られるのに、東京のオフィスに出社できないのか?」

ということである。実は、この矛盾には自分自身も十分気付いていた。

「本当は、うつではなくて、単に現実から逃げているだけではないだろうか?」とも思っていたのだ。

また、新潟から佐渡へと向かうフェリーに一人で乗っている時、私は激しく自問自答したものである。

「私は何でこんなところにいるのだろう?」

精神科医からの衝撃的な一言

予定では、1月31日に復職する予定になっていたのであるが、やはり当日の朝、どうしてもベッドから起き上がることができない。猛烈な拒絶反応を起こしているのだ。私は、10時すぎまでベッドでうずくまっていたが、たまらず心療内科へ駆け込んだ。

病院で先生はこう尋ねた。

「最近、どうですか?」

「実は、10日間、一人旅していました。そして、本当なら今日復職するはずだったのですが、今朝どうしても起きられなくて、会社に行けなかったのです。」

「そうですか。10日間も一人で旅行できたのですね。素晴らしい進歩ですね。薬が効いたのでしょう。」

そこで私はこう切り返した。

「でも、今朝、どうしても起きられなかったのです。」

「目覚まし時計は何個かけていましたか?」

「え?」

私はしばらくの間、質問の意図を読み取れず、真っ正直にこう答えた。

「一つです。目覚ましは鳴っていましたし、目は覚めているのですが、どうしても身体が起き上がれないのです。」

「そうですか。それなら、目覚まし時計を増やした方がいいですね。どうも薬の影響でそうなったのではなさそうですし。単に怠けですね。自分をもう少し奮い立たせないといけません。」

私は驚愕した。「目覚まし時計を増やす」という物理的な解決方法に。そして、医者に「怠け」と言われたショックに。最初は、「ギャグかな?」と思ったのだが、違う。違うのだ。

心療内科の先生は各自のスタイルを持っている。そして、私も2回転院したからこそ分かるが、先生によって重視するポイントが違うのである。そして、この先生の場合は「自分が処方した薬に絶対的な自信を持っている」タイプの先生だったようである。

当時の私は「怠け」という言葉を真に受けてしまい、深刻に落ち込んだ。自分は「怠け」なのだ、と。私は自宅に帰ると、またベッドの中にうずくまった。

(次回へ続く)

うつの技術(サラリーマン版)~まだ辞表は出さないで!2014年11月09日より一部抜粋

目次
(1)「ブログでは書けない僕の休職日記」
(2)ストーリー編「社会人二年目の異変~何かが狂ってきた」
(3)ストーリー編「初めての休職~なかなか復職できない現実」
(4)マインド編「本当に辛いときは、絶対に遠慮しないこと~溺れるものは藁をも掴みまくれ」
(5)テクニック編〜「就業規則は穴があくほど目を通すこと!」
(6)あとがき

うつの技術(サラリーマン版)~まだ辞表は出さないで!

休職4回、退職4回……うつ病歴12年のサラリーマンの著者がうつと上手に付き合う方法を公開。自身が体験したストーリー、経験から得たマインドの持ち方、自立支援制度の利用法など、”うつの技術”を教えてくれます。サンプルも必読!
<<サンプルはこちら>>

 

print

シェアランキング

この記事が気に入ったら
いいね!しよう
MAG2 NEWSの最新情報をお届け