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400年の美。なぜ狩野派だけが、天下人の心を捉えたか?

室町時代末期から江戸時代の終わりまで、画壇に君臨し続けた狩野派。年数にして、なんと400年。これは、世界でも類を見ません。何故、彼らは武将たちに愛され続けたのでしょうか? 無料メルマガ『おもしろい京都案内』では、歴史を振り返りながら、その組織の全容に迫ります。

画壇に君臨し続けた絵師集団「狩野派」とは

今年は琳派の祖・本阿弥光悦が徳川家康から与えられた洛北・鷹峯の地芸術村を開いてから400年となる記念の年でした。

京都国立博物館でも琳派展が開催され俵屋宗達、尾形乾山、酒井抱一の「風神雷神図屏風」が一堂に集まり展示されました。琳派や朝廷の絵所預(えどころあずかり)として活躍した土佐派など、日本美術史には京都を起源に持つ画派はいくつもあります。

しかし、室町時代末期から江戸時代の終わりまで、400年という長きに渡って画壇に君臨し続けた絵師集団狩野派だけです。今回は世界でも類を見ない400年繁栄し続けた画家の組織を解き明かしていきます。

狩野派なぜ信長秀吉家康といった天下人の心とらえることができたのか? そこにはどのような策略や戦略があったのか? 狩野派の中でも特に高名だった、狩野元信狩野永徳狩野探幽狩野山楽にフォーカスを当ててその隆盛を見ていきましょう。簡単に言うと4人にはそれぞれ以下のような特徴があります。

元信:(2代目)狩野派の画風を確立し、絵画ビジネスの開発で大成功を収めた。
永徳:(元信の孫)狩野派の中でも飛びぬけた才能を持ち、力強い画風で天下人の心をつかんだ超売れっ子絵師。
探幽:(永徳の孫)徳川幕府お抱えとなり、江戸に移って大活躍する。
山楽:(京狩野の祖)徳川家に命を狙われ波乱の生涯を送るも、京都で探幽の画風を忠実に継承する。

それでは、1人ずつそれぞれが生きた時代を見ていきましょう!

「元信」の時代

狩野派の祖狩野正信ですが、2代目元信のころに狩野派の基盤が固まっていったと言われています。

元信は1467年に応仁の乱が勃発する少し前頃に室町幕府の御用絵師として8代将軍・足利義政に仕えました。それまでは絵画と言えばモノクロの水墨画と源氏物語絵巻などに見られる色味を使った大和絵主流でした。元信は両者を融合させ、障壁画肖像画仏画など様々な絵画を手掛けました。

元信の時代狩野派が繁栄していくカギとなったのは、大徳寺の大仙院にある元信筆・四季花鳥図でした。この絵は、ダイナミックに描かれているものの、細かい描写はとても繊細で誰が観ても好きになるような絵です。

彼の画風は当時の武将たちなどから気に入られるようになり次々と注文が殺到するようになりました。そのため、1人では対応することが出来なくなり、大勢の弟子を取り、さまざまな作品を量産していくのです。

新たに弟子になる人たちは絵の技量はないので元信は考えました。絵手本を作り、元信と同じような絵描けるようにしたのです。花や草木、昆虫などありとあらゆるモチーフを網羅した元信のマニュアルです。これによって弟子たちは誰でも元信と同じように狩野派の絵を描くことができ、作品の質も一定に保つことが出来ます。ここに狩野派の元信ブランド成立したのです。

当時の絵師は今のようにアーティストではなく、同じ作風のものを忠実に再現する職人でした。オリジナリティーなど出してはいけないのです。弟子元信の個性忠実にまねることが求められました。

元信は狩野派経営基盤を更に確かなものにするために扇絵を手掛けました。当時、扇は祝い事や慶事を始め、季節のあいさつなどの度に贈る習慣がありました。贈り物の品ナンバーワンだったに目を付け大量生産するようになるのです。これもまた、弟子が沢山いた狩野派だからこそ可能だったことです。狩野派は当時この扇絵の制作で莫大に儲け屋台骨を支えました。

そしてそれだけではなく、元信は室町幕府扇の独占販売許可申し出ました。御用絵師だった元信は幕府の将軍義政とも近しい関係だったので、そのようなことが可能だったのでしょう。これにより、扇座という扇制作の独占権を得て、絵師としてのみならず経営者としても活躍するのです。

元信は大勢の弟子を取り、伝統的な教育システムを取り入れ、絵画ビジネスとして発展させていったのです。そして、寺社や御所など大規模な公共事業を受注するゼネコンのような体制を整え、狩野派は幅広い層の好みに対応し繁栄しました。

「永徳」の時代 ~天才現る~

元信亡き後は1467年の応仁の乱から100年続いた戦乱の世になります。そのような時代に狩野派で異彩を放ったのは元信の孫永徳でした。天才の誉れ高い永徳は、天下人信長、秀吉の心をとらえ時代の寵児になりました。そのため彼の多くの作品は戦乱によって消失してしまっています。わずかに残る作品の1つは大徳寺の聚光院に観ることが出来ますが、残念ながら非公開寺院です。

聚光院は戦国武将の1人、三好長慶の菩提寺で茶道の三千家の代々の墓所がある由緒ある場所です。この寺院に大切に保存されているのは、美術史に残る名作中の名作四季花鳥図襖」です。狩野派の頂点に君臨した永徳の傑作です。

天才永徳は、大坂城、安土城、聚楽第(秀吉の邸宅)など国家事業というほどの大作を次々に手掛けました。国宝上杉本洛中洛外図屏風」は、信長天下人になるため政治的駆け引きとして上杉謙信に贈ったという名作中の名作です。これは今も大切に山形県米沢市の上杉鷹山(ようざん)記念館に収められています。

信長は上杉謙信と戦っても勝ち目がないと思い、貴重な美術品を贈りその権力を財力をもって誇示しようとしたとも言われています。永徳の作品当時最高級の美術品とされ当時の武将たちステイタスシンボルとなっていたのです。

さて、天下人を虜にした永徳の画法とはいったいどのようなものだったのでしょう?

聚光院の「四季花鳥図襖」には梅の巨木が大地をわしづかみにするように立っている様子が描かれています。そして、その幹や枝はS字型に曲がりながら画面の外に突き抜けています。

描かれる対象物が原寸大かそれ以上に大きく描かれているのが永徳の特徴です。このようなダイナミックな画風を大画(たいが)方式といいます(モチーフを実物大かそれ以上に大きく描く方式)。スケールの大きさ天下人の持っていた野心のようなものに重なっていったのです。

そして、天下人のバイタリティー上昇志向永徳の絵画最高級の美術品にしていったのです。上向きに勢いよく伸びる枝は天下人の野心に通じ、永徳独自の画風は下剋上に生きる武将の野心に合致したのです。

永徳は信長や秀吉の城の障壁画を手掛けるときは自分の家を弟に預けたといいます。もし天下人が気に入らないものを描いたときは首をはねられる覚悟を持っていたというのです。当時は絵師といえども、常に生死を感じながら命がけで描いていたことが伝わってくるエピソードです。

聚光院にはもう1つ永徳の代表作が残されています。国宝琴碁書画図(きんきしょがず)」です。これは、琴を弾く人、囲碁をさす人、書をしたためる人、絵画を描く人の4人が描かれた絵です。古代中国ではこの4つのたしなみがある人が最高に教養のある人とされていて、その様子を描いているものです。この絵はとても緊張感を感じる絵で、まさに永徳が命がけで描いている緊迫した筆遣いが伝わってきます。

そんな大活躍の天才絵師永徳は突如働き盛りの48歳で亡くなってしまいます。全盛期のほとんどの時間を秀吉の仕事を掛け持ちして手掛けているうちに過労死したと言われています。

永徳の絵画は天下人に好まれただけに大坂城、安土城、聚楽第などに多く存在しました。そのためそれらの建物は戦でことごとく焼失し残されたものはごくわずかしかありません。とても残念なことではありますが、永徳の存在残された数少ない作品日本美術史に今も燦然と輝いています

さて、時代は戦国の世から天下分け目の関ケ原の戦いへと移り変わります。関ケ原の戦いのときに取った作戦とはどのようなものだったのでしょうか?

1590年、永徳が急死し、1598年には狩野派の最大のパトロンであった秀吉も亡くなってしまいます。世は天下分け目の関ヶ原の戦いが迫っている時でした。次の権力者は徳川か? 石田光成率いる豊臣か? 朝廷か? といった時、狩野派はどう生き残っていったのでしょう?

政権の行方は狩野派にとって組織の存亡にかかわる一大事でした。狩野派存続のために取った生き残り戦略はそれぞれに担当の絵師を配置することでした。三者のうちどのものが政権を取っても存続できるようにしたのです。これを三面作戦といいます。

「探幽」の時代

関ヶ原の戦いが終わり、徳川家が勝利し、1603年に江戸幕府が成立すると幕府は江戸に移ります。徳川家康が江戸幕府を開くと狩野派も江戸に拠点を移し江戸城の障壁画などを手掛けるようになります。

同時に、京都の徳川の居城二条城にも壮大な障壁画を残しました。国宝二条城二の丸御殿33の部屋三千枚に及ぶ襖絵を手掛けその陣頭指揮を執ったのは当時まだ20代だった永徳の孫探幽です。若くて勢いがあった永徳は見事に幕府の要望に応えたのです。

二の丸御殿の遠侍(とおざむらい)の間は外様を含め全ての大名の控えの間です。二条城に訪れる全ての人が通されるこの控えの間には獰猛な虎の絵が描かれています。この部屋の障壁画であるはむかう相手は許さないという威圧的を与え徳川家の権力の強大さを誇示しています。

そして、奥に入り将軍直々に顔を見せる大広間には堂々たる松の襖絵が一面に描かれています。金箔の襖の上に堂々と太い枝を延ばす松の絵は権力の象徴を示しています。下剋上の時代を生きた戦国武将が好んだ枠を飛び出すような永徳の大画方式のものとは異なり、堂々とした安定感を見せています。枝や幹は堂々としているものの、その先端は枠に収められていて観る者に安定感を与える構図になっているのです。

このように徳川幕府御用達となった狩野派の絵師江戸に拠点を移しただけでなく画風までも変えていったのです。それは、徳川家が好む質実剛健、天下泰平というものでした。このあたりが狩野派の凄みであり、魅了でもあります。

さて、京都に留まった狩野派の絵師はいったいどうなったのでしょう? 

「山楽」の時代

三面作戦で京都に留まった狩野派の絵師の中で京都で狩野派の本流受け継いだのは山楽でした。嵯峨大覚寺には豊臣側についた狩野山楽の作品が残されています。

「滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ」 (大納言近公任 百人一首)

平安時代に藤原公任(きんとう)が詠んだ百人一首に撰ばれている一句です。嵯峨天皇が観月のために造営した大覚寺の大沢池のすぐ近くに今もその遺構が残る名古曽(なこそ)滝があります。名古曽滝の「なこそ」と名前こその「名こそ」が掛詞になっています。有名な滝の水が枯れることと、人の名声もいつかはなくなってしまうという無常を詠んだ有名な歌にゆかりのある古刹です。

大覚寺では山楽の代表作牡丹図襖」を実際に観ることが出来ます。牡丹を原寸大に描く方式は永徳の大画方式を受け継いでいるのが伺えます。牡丹とは対照的に岩が幾何学的に描かれていてリズム感を付けているあたりは永徳とは違う山楽の特徴と言えるでしょう。

山楽は永徳の画風を受け継ぐ血縁関係ありません。秀吉が部下の子供だった山楽を狩野派に弟子入りさせたのです。関ヶ原の戦いの時は、絵師として技量を発揮した山楽豊臣方につくことになりました。豊臣家が滅んだ後は、山楽はもともと武士の身分だったので徳川から豊臣家の残党として追われることになりました。天下人が徳川に代わってしばらくの間は、命を狙われ、息をひそめて暮らす以外ありませんでした。山楽は朝廷や公家に助けられながら、命拾い絵師として京都を中心に活躍することになり京狩野の祖と呼ばれるようになりました。

彼は永徳をこの上なく尊敬し、ずっと永徳の後継者として自負しその技量を継承していきました。大覚寺を訪れた際は山楽が描いた「紅白梅図」を観てみて下さい。樹木の太さ、たくましさなどは永徳そのものといった画風で、彼がいかに永徳を慕っていたか伝わってくる作品です。

江戸末期、王政復古の大号令が出され、大政奉還が行われたのは二条城二の丸御殿でした。一面に描かれた狩野派の障壁画が奇しくも武家社会の終焉を見届ける運命にありました。この時、400年続いた絵師集団狩野派が最強のパトロンを失った瞬間でもありました。

昨年、「(まき)に白鷺図屏風」という狩野派の絵画が京都でみつかりました。幹の陰影や松の描き方から京狩野(きょうがのう)の祖、狩野山楽に違いないと言われています。京都ではこうして今もなお次々とかつて活躍した人たちの貴重な品々が見つかっています。これもまた1200年ものあいだ都であり続け、ありとあらゆるものの最高級品が集まる街が持つ魅力の1つなのです。

いかがでしたか?

私が将来京都学を教えるようになったら絵画の写真を使って「琳派」や「狩野派」を含めた美術史などの講義をしてみたいものです。もし、ツアーコンダクターとして案内するなら、「琳派ゆかりの名所めぐり」や「狩野派を訪ねて」などのツアーを組んでみたいです。

最近京都に行くときはこのようなテーマを決めて各所を訪ね1人で楽しんでいます。これも将来そのような機会が巡ってきたときのための準備と下見です(笑)。この場所に来たらこの説明して、この逸話を話してなど将来の思いを巡らせながら過去を旅しています。

京都には多くの人に案内したい、その魅力を一緒に訪ねて伝えたいものがいくつもあります。京都日本人の知識と教養の宝庫です。これからもそのほんの一部でも皆さまにお伝え出来ればと思っています。

image by: Wikimedia Commons

 

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