MAG2 NEWS MENU

京都の謎。なぜ足利義政は略奪してまで「銀閣寺」を建てたのか?

日本人なら知らない人はいないといっても過言ではない世界遺産「銀閣寺」。華やかな金閣寺とは対照的に、控えめで趣のある佇まいは京都の風景にしっとりと溶け込み、見る者を魅了してやみません。無料メルマガ『おもしろい京都案内』では、銀閣寺が建てられた経緯や創建した足利義政の胸の内を探りながら、そのさらなる魅力と謎に迫ります。

世界遺産「銀閣寺」の魅力

今日は誰もが一度は訪れたことがあるような有名寺院「銀閣寺」の魅力や謎に迫ってみたいと思います。

銀閣寺は京都市左京区にある日本で最も有名な観光寺院です。京都に17か所ある世界文化遺産の一つにも登録されています。正式名称は慈照寺(じしょうじ)といい、京都五山第二位の格式を誇る禅寺・相国寺の境外塔頭(たっちゅう)の一つです。境外塔頭とは、相国寺の境内の外にある相国寺に所属する小院です。
ちなみに金閣寺の正式名称は鹿苑寺(ろくおんじ)といいますが、同じく相国寺の境外塔頭です。当時相国寺が強大な力を持っていたことを伺わせます。創建は室町幕府8代将軍足利義政です。銀閣寺は1482年に義政が開いた山荘に始まります。

見どころは国宝の銀閣観音殿)です。一層目の心空殿(しんくうでん)は書院風の建築様式です。二層目の潮音閣(ちょうおんかく)は花頭(かとう)窓をしつらえた唐様仏殿の様式の建物です。花頭窓は炎をかたどった禅寺で良く見かける窓なので、当初は「火頭窓」という字が使われていました。しかし、戦国の動乱期などがあったことなどから火は災いを連想されるので「花」という漢字が使われるようになったようです。建物の閣上には鳳凰があしらわれています。鳳凰は日が昇る方角・東を向いていて、観音菩薩を祀る銀閣を守護しています。

銀閣は観音殿として質素で高貴な意匠でその価値が評価されています。特に同仁斎(どうじんさい)の東求堂は初期書院造りの住宅建築遺構として価値が高く国宝に指定されています。それまでは源氏物語絵巻などに見られるように大広間を御簾(みす)などの簾(すだれ)で仕切られた空間に人々は暮らしていました。プライバシーなどほとんどないような生活様式でした。そのため四畳半の同仁斎の空間は当時としては画期的なしつらえで、これが後の書院造に発展していきました。そして人々がプライバシーか確保された小さな部屋に住むようになったのはこの頃からだとされています。銀閣寺の東求堂の出現は人々の生活様式が変わるきっかけとなり、その様式は現在も受け継がれているのです。

本堂の前の庭園には二つの盛り砂があります。波紋を表現した銀沙灘白砂の円錐形の盛り砂向月台(こうげつだい)です。整然と丁寧に盛られた二つの盛り砂はとても芸術的でひなびた趣のある銀閣とのコントラストにアクセントをあたえています。銀沙灘は白砂を段形に盛り上げて造られたもので、月の光を反射させて銀閣を照らすために造られたと言われています。向月台(こうげつだい)はその上に座って正面にある月待山(つきまちやま)から昇る月を眺めるためのものと言われています。砂は白川砂で斜長石(しゃちょうせき)や石英(せきえい)を含み、光を強く反射する性格を持っています。

銀閣寺が建てられた経緯

義政は東山にあった浄土寺という寺の墓地を没収し無断でこの地に東山殿(現在の銀閣寺)を造営したと言われています。造営のために民衆に多額の臨時税を課しそれを財源として東山殿の造営に暴走したようです。義政が将軍として生きた時代は室町幕府の権力が衰退すると同時に地方の武士が台頭し情勢が不安定な時期でした。何をやってもうまくいかない義政は気の休まる東山殿という別荘を創建するために突き進んでいくのでした。しかし、戦乱と大飢饉で資金は集まらなかったので、京都や奈良の寺社などから優れた石や樹木を略奪したとも伝わっています。

京都だけでも、等持院から大量の松、東寺から大量の蓮、室町殿から松、金閣寺から庭石、仙洞御所からも石を略奪したとのこと。もう何が何でも東山殿を建てるという思いが伝わってきます。造営された経緯がそのようなものだったので、現存する建物は銀閣東求堂しか残っていません。なぜなら、義政の死後、略奪されたものを持ち主が取り返しにきたからです。他人の者を略奪して素晴らしい別荘を建てても、跡形もなくなってしまうのは当然ですよね。

義政は、夢想疎石(むそうそせき)が建てた苔寺西芳寺)に憧れていました。夢想疎石は禅僧でありながら、天龍寺の曹源池(そうげんち)庭園なども造営した天下の名作庭家としても知られています。銀閣寺は苔寺を模倣して造営されたと伝わっています。下段を池泉回遊式庭園、上段を枯山水庭園とし両脇が植栽の壁で覆われていて途中で直角に曲がる参道などは同じ様式となっています。

義政が銀閣寺で詠んだ和歌に次のようなものがあります。

「くやしくぞ 過ぎしうき世を 今日ぞ思ふ 心くまなき 月をながめて」

和歌というのは美しい自然を愛でたり、愛する人への思いを慕うような幻想的な情景や憧憬を詠んだものが一般的です。しかし、この歌は現実に打ち勝つことが出来ず月へ逃避したいとの思いが込められた強い悔しさがにじみ出ているのを感じます。

銀閣の正面の山を月待山といいます。義満はこの山から昇る一瞬の月の出を愛でたことでしょう。

江戸時代初期、1615年に観月を意識して建てられた東山殿は、銀閣寺として再建されました。この再建の時、義政が意識した観月のコンセプトが強化されています。先程ご紹介した有名な向月台の造形もこの時に加えられたものだと伝わります。同じく銀沙灘という砂で波を表した意匠も江戸時代に加えられ月に関係しています。義政は、月の引力によって潮の満干を繰り返す波の音をイメージして銀閣寺の二階を潮音閣と命名しています。銀沙灘は、月光が反射して銀閣をライトアップするようにかすかに銀閣に向かって傾斜しているといいます。江戸時代の銀閣寺の再建は、義政の観月への強い思い入れを強化したのです。思いのままに政権を運営することが出来ず不遇の生涯を送った義政の冥福を祈ったものだと推測されています。

いかがでしたか? さすが世界遺産と思うような数々のいわれがあり、必要のないものなど何もないのです。そして、存在する全てのものには理由があり、説明がつかないものは存在しないのです。観光で訪れても、ただ見ているだけでなく、どういう歴史的意義があるのかをよく観ると違うものが見えてきます。沢山のものを表面的に見るよりも、一つのものを深く見ることは、返ってより多くのことを観ることになります。少しずつ観察力や洞察力を磨いて見えないものを観る努力をしたいと思います。

京都は日本人の知識と教養の宝庫です。これからもそのほんの一部でも皆さまにお伝え出来ればと思っています。

image by: Luciano Mortula / Shutterstock.com

 

おもしろい京都案内
毎年5,000万人以上の観光客が訪れる京都の魅力を紹介。特にガイドブックには載っていない京都の意外な素顔、魅力を発信しています。京都検定合格を目指している方、京都ファン必見! 京都人も知らない京都の魅力を沢山お伝えしていきます。
<<登録はこちら>>

print

シェアランキング

この記事が気に入ったら
いいね!しよう
MAG2 NEWSの最新情報をお届け