「鉄道」と「易」。一見何の関係もないような二者ですが、実は深い繋がりがありました。今回の無料メルマガ『1日1粒!「幸せのタネ」』で紹介されているのは、易者で「横浜の父」の異名も持つ「高島嘉右衛門」。今では「高島町」という地名と、横浜市営地下鉄ブルーライン「高島町駅」にその名を残すのみですが…、私財を投げ打って鉄道の開通と横浜の発展に尽力した高島嘉右衛門とは、一体どんな人物だったのでしょうか?
「鉄道」と「易」の意外な関係
10月14日は「鉄道の日」です。日本初の鉄道が、新橋駅から横浜駅の間で開通したのが明治5年10月14日だったことにちなみます(ちなみにこれは新暦で、当時の旧暦であれば9月12日)。
明治5年に鉄道が開通というのは、実にすごいことです。
1853年にペリーが浦賀にやってきて、大きく日本が揺れ動きます。攘夷運動、倒幕・佐幕の衝突を経て、徳川幕府は大政奉還により政治の表舞台を去り、1868年に王政復古の大号令が布告されます。この間、15年。そしてその4年後の1872年には鉄道が開設しているのです。このスピード感、勢い。恐ろしいほどのエネルギーを感じます。
さまざまな人が知恵と情熱を結集したのが明治維新といえるでしょう。その中で大きな役目を果たしたのが、「易聖」と称された高島嘉右衛門です。高島嘉右衛門は一大事業家であり、横浜の地の発展に大いに寄与しました。
鉄道開設についても、早くから伊藤博文、大隈重信に打診していました。ただ、「一個人」「私企業」がやるべきことではない、ということから国家事業として始まります(このいきさつはもっと複雑ですが省略します)。
その中で、「では横浜近辺の海面を埋め立てて、鉄道の敷地と国道を政府へ献上しましょう」と言って事業に取り掛かります。明治3年11月に起工して、翌年2月までに、石崎から青木町までの一帯を一直線に埋め立てます。これもまたとんでもなく素早い事業完成です。
ちなみに高島嘉右衛門はこの事業では莫大な私財を投じていますが、できたものをそのまま政府へ献納しています。事業で儲けた金で、社会に貢献する。これをとんでもない規模で実行していたのが高島嘉右衛門です。
埋立地ができ、鉄道が敷設されたことで、この一帯が大きく発展していきます。町名は、高島嘉右衛門にちなんで「高島町」と名づけられます。
鉄道の駅名では、横浜市営地下鉄ブルーラインの高島町駅の駅名にその名残があります。かつては国鉄時代に貨物駅として高島駅があり、また東京急行電鉄の駅で高島駅もありましたが、時代の流れの中で駅が廃止されてしまっています。町名も高島は残っていますが、その一部は「みなとみらい」に変わっています。
鉄道の日に、その開設に大きく寄与した易聖の存在と功績を、心から偲びたいと思います。
image by: Wikimedia Commons
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