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二度目はない。京都で限定公開中、千利休と狩野永徳「蜜月」の証

戦国時代の権力者から寵愛を受けた代表的な芸術家といえば、茶人・千利休と狩野派の天才絵師・狩野永徳。そんな彼らの奇跡のコラボ作品を目に焼き付けるチャンスがまさに今、巡ってきています。今回の無料メルマガ『おもしろい京都案内』で紹介されているのは、通常は非公開ながら、3月26日まで特別限定公開されている大徳寺聚光院(じゅこういん)。著者の英 学さんによる襖絵や庭にまつわるエピソードを一読してから訪れる聚光院への旅は、格別なものとなるはずです。

大徳寺聚光院

大徳寺は京都市北部紫野に広がる禅寺で、24もの塔頭(たっちゅう)を持つ大寺院です。その大伽藍(がらん)は創建700年を迎え、臨済宗大徳寺派の総本山でもあります。大伽藍は勅旨門の前から参道を進むと山門、仏殿、法堂が一直線に並んでいます。今回はその先の本堂西隣にある塔頭の一つ・聚光院の魅力に迫ります。

聚光院は戦国の権力者に仕えた茶人・千利休によって千家の菩提寺となり隆盛しました。この場所に狩野永徳の国宝障壁画花鳥図が9年もの修復を終え現在公開されています。

大徳寺の山門・金毛閣の上には千利休の彫像が置かれています。これは利休の切腹の引き金になったと伝えられています。高貴な方も通る建物の上に雪駄(せった)を履いた利休の像があるとは無礼であると時の天下人・秀吉は激怒したと伝えられています。

この大徳寺で時の権力者であった信長や秀吉に寵愛されていた絵師が活躍していました。狩野派の天才、狩野永徳です。聚光院の花鳥図は永徳が利休とコラボして完成させたものだと伝わっています。花鳥図には通常四季が描かれる事が多いのですがこの絵には夏の情景がありません。天才絵師・永徳であっても利休なしでは完成しなかった襖絵なのです。

そのなぞを握るカギは襖絵の前に広がる庭にあります。蜜月の仲だった永徳と利休はその後袂を分かちあうのですが、そこにはライバルの存在がありました。同時代を代表する絵師・長谷川等伯です。今回は秀吉が天下人だった時代に権力者のすぐ近くで活躍した文化人2人にフォーカスしながら聚光院の魅力に迫りたいと思います。

利休切腹の謎

大徳寺の山門の上に彫像があることで分かるように、秀吉が天下人の時代に利休の影響力が増していました。利休が切腹を命じられた理由は秀吉が利休の娘を側室にしようとするが断ったからだとも伝えられています。また、価値のない茶道具を高値で売る利休の商いのやり方や利休が秀吉の朝鮮出兵に異を唱えたことなど色々あったようです。

狩野永徳作国宝花鳥図

聚光院の室中(しっちゅう)の間の三面16枚の襖に大胆な構図で描かれた水墨画の大作があります。東面の襖には生き物のように幹がのたうち枝が伸びる梅の木の下には清流が流れています。梅は満開に咲きその下にオシドリが戯れています。

北面には清流の水面が描かれています。うっすらと雪を被った山に春の清流が勢いよく流れ込んでいる様子が伝わってきます。

左側には鳴き声を上げるタンチョウ鶴と松。地面をわしづかみにするようなこの根元と画面をはみ出すように描かれた幹は狩野派独特の大画(たいが)様式です。

この大胆で力みなぎる画法は戦国の世に生きた武将たちのみなぎるエネルギーと重なり合い広く受け入れられていったことでしょう。

狩野派の大画様式に関しては過去に取り上げました。

400年の美。なぜ狩野派だけが、天下人の心を捉えたか?

松の傍らにひっそりと花が咲いている冬の情景が描かれています。西面の襖絵は北面の松と呼応するように反対側に枝を伸ばす松の木と餌をついばむ鶴が描かれています。

そのさらに左の水辺に水鳥が飛来しています。そこにはいきいきとした花木と鳥の華麗なる世界が広がっています。しかしこの花鳥図には夏の絵が描かれていません季節の配置もバラバラです。

画面を一つにつないでいるものは?

永徳以前の絵は描かれた風景のつながりによって右から左へと画面が展開していくスタイルが主流でした。しかし永徳の時代になると風景のつながりを省略し、描かれた梅や松などだけで画面がしっかりと構成されるようになっていきます。右から左という空間的なつながりから、枝の向きや流れによって視線が移動していく画風に変化していったのです。

聚光院の襖絵に描かれた梅の大木の存在感や部屋の角の折れ曲がる空間を利用して立体的に描かれた松が画面を支配しています。そして襖からはみだすように描かれた枝や生きたように描かれた枝が見る者を誘導するのです。

同時代に活躍した長谷川等伯も大画様式で描いていますが、永徳が作り上げたスタイルというのは桃山時代の様式になっていきました。

長谷川等伯に関して書いた過去の記事はこちら。

全盛期の狩野派を脅かした孤高の天才、長谷川等伯の波乱万丈人生とは

ここで永徳が描いた有名な作品をご紹介しましょう。狩野永徳の傑作中の傑作に洛中洛外図屏風があります。京都の町を事細かに描写した金色の豪華な屏風絵で、祇園祭の山鉾巡行の様子なども描かれている有名な作品です。そこにはおよそ2,500人の人が生き生きと描かれています。

これは信長が上杉謙信に贈ったもので聚光院の花鳥図の前年に描かれた作品だと伝えられています。

聚光院の花鳥図はどのような経緯で描かれたのでしょう?

聚光院は信長以前の戦国の雄、三好長慶(ながよし)を祀るために1566年息子の義継(よしつぐ)が建立した寺院です。そして三好家からの依頼で狩野松栄(しょうえい)・永徳親子が方丈の障壁画を手掛けることになったのです。父・松栄が3つの部屋を、永徳が2つの部屋を手掛けました。

さて本来は四季を描く花鳥図ですが、永徳の花鳥図には夏の風景がないのはなぜなのでしょう?

実は室中の間の北面の襖の向こう側にある襖を開けると仏間があります。そこには僧・笑嶺宗訢(しょうれいそうきん)の位牌と彫像があります。笑嶺宗訢は臨済宗の僧侶で大徳寺の住持を務め聚光院を開いた人です。

彫像が安置されている場所の下に描かれているのは松栄の蓮池藻魚図(れんちそうぎょず)です。蓮の葉と魚たちが柔らかなタッチで描かれています。仏の空間にふさわしいものといえばです。浄土を意味する蓮の池に魚が泳いでいます。これこそが息子・永徳が描いた花鳥図に添えられた父・松栄による夏の風景です。

夏はお盆などで仏間が開かれているので永徳の花鳥図の襖を開けると父が描いた夏の絵が描かれた襖絵が現れる仕掛けです。そこには大胆で粋な親子が手がけた美の世界があるのです。

千家と聚光院の深い関係

聚光院は三好家が信長に滅ぼされると千利休が菩提寺とします。以前から笑嶺和尚から利休は禅を学んでいた経緯があったからだと伝えられています。方丈の北側には千利休150回忌に表千家によって建てられた茶室・閑隠(かんいん)席があります。

利休に関する過去の記事はこちら。

千利休&織田有楽斎ゆかりの名所(メルマガ 「おもしろい京都案内」第3号)

利休と永徳の関係

利休は永徳と運命的な出会いをします。聚光院の百積庭(ひゃくせきのにわ)は利休が作庭したものです。庭の設計の下絵は永徳と伝わります。

当時の権力者たちに寵愛された永徳と茶の道で乞われた利休。2人の蜜月は途方もない芸術を生み出しました。ところがそれから十数年後、永徳が利休に罵声を浴びせる事件が起きます。2人の関係は急速に冷めていきました。

永徳と利休のコラボ

聚光院の花鳥図は東から北面にむかって春、北面の左から西にかけては冬、その左が秋と季節がばらばらに描かれています。それを一つにしているものは水の流れです。東から流れる清流は山から流れ出た雪解け水と合流します。

大地を潤し恵みを与えやがて大河となるその先にあるものは海です。永徳は襖絵に描き切れなかった海を表わすために百積庭の下絵を描き利休に託したのです。百積庭は完成当時、今のような苔むした庭ではなく、白石が敷かれていてまさに海を表していたと伝わっています。永徳と利休の究極のコラボが花鳥図を完成させていたのです。

秀吉は戦国武将の中でも農民の出身で強いコンプレックスを持っていたようです。秀吉は信長の三回忌を行い世の天下人の威厳を戦国武将達に見せつけました。その時に永徳に信長の肖像画を描かせています。自分が信長の後継者だという正当性を名だたる武将達に認めさせるためだったといいます。

永徳はそんな秀吉の威厳を最大限に表現するために大阪城や聚楽第(秀吉の京都の居城)などの障壁画を一手に引き受けました。

その代表的な絵が唐獅子図屏風です。単純な構成ながら大迫力で迫ってくる臨場感のある屏風絵です。元々は屏風ではなく城の謁見の間の壁一面に描かれていたものだと伝わります。武将達はこの絵を秀吉越しに仰ぎ見ることによって威厳を感じずにはいられなかったでしょう。そんな仕掛けがこの絵にはあったのです。

一方、信長の茶頭(さどう)だった利休も本能寺の変の後は秀吉に仕え3,000石の禄(ろく)を賜っています。利休は北野の茶会など秀吉の茶事を仕切り、聚楽第の築庭に携わるなど秀吉の政(まつりごと)にも関わりました。

このように永徳も利休も秀吉を天下人に祀り上げるためにあらゆるバックアップをしていたのです。ところが突然利休が狩野派のライバルである等伯と狩野派をなじったという記事がみつかります。それは当時の絵描きのプロフィールをまとめた本に書かれているものでした。

ライバル同士の対立

1590年、京都御所で障壁画制作をめぐり対立がありました。一旦は等伯に決まっていたものの永徳が公家に直訴しひっくり返したのです。そのやり方に利休は激怒しました。

そのころ利休は等伯を気に入り大徳寺山門の金毛閣の天井と柱の装飾を任せるなど重用していました。永徳と利休の間柄は急速に悪化します。その直後永徳は急死してしまいます。天才絵師・永徳の死は心労と過労が原因と言われています。

大徳寺山門の利休の彫像事件など秀吉のなかで利休への不信が強まる中、秀吉の弟・秀長が亡くなります。秀吉は最大の理解者であり支持者であった永徳と秀長を失います。このことが秀吉の心のバランスを狂わせたかも知れません。突然秀吉は利休に切腹を命じます。永徳が亡くなってから1年後でした。

2人の結末は悲しいものですが、大徳寺聚光院に秀吉の天下取りを支えるために邁進した永徳と利休の蜜月の証があります。大画様式が描かれた花木と鳥たちの世界。すべてをつなぐ襖絵に描かれた水の流れが庭に注ぎ込んでいます。これこそが純粋に美を求めた二人の究極のコラボです。

聚光院は通常非公開寺院です。我々が生きている間にはもう公開されることはないのではないでしょうか。是非この機会をお見逃しなく足を運んでみて下さい。

創建450年記念特別公開公開中 ~2017年3月26日

いかがでしたか? 京都は日本人の知識と教養の宝庫です。これからもそのほんの一部でも皆さまにお伝え出来ればと思っています。

image by: Wikimedia Commons

 

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