一つの「ゆめ」が世界を変えていった
昭和56(1981)年、日本育種学会の大会にボーローグ博士と権次郎が招かれて、それぞれ講演を行った。ボーローグ博士は67歳、権次郎は84歳であった。権次郎はボーローグ博士に地元の銘菓「水芭蕉」と、次の昭和天皇御製を送った。
水きよき池のほとりにわがゆめのかないたるかもみずばせう(水芭蕉)さく
権次郎の生まれ故郷に近い縄ヶ池に自生する水芭蕉の大群生を、昭和天皇が詠まれたお歌である。品種改良によって人々を救いたいという権次郎の「ゆめ」も、多くの人々の努力を通じて実現したのである。
この対面から7年後の昭和63(1988)年、91歳の権次郎は亡くなる直前に残した回顧録の中で、次のように述べている。
農林10号は、さまざまな出会いを重ねながら世界の小麦を変えていった。
種子と種子と、そして種子と人との出会いのなかで――それは一粒の種子がもつ限りない可能性を実証しつつ世界をかけめぐり、世界を変えていったのです。農林10号の物語には、壮大なロマンを感ぜずにはおられないのです。
(同上)
この「種子」を「ゆめ」という言葉に替えても良いだろう。一つの「ゆめ」が多くの人々との出会いを通じて、世界をかけめぐり、世界を変えていったのである。
文責:伊勢雅臣
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