食糧危機から世界を救った日本人。稲塚権次郎「農林10号」の奇跡

 

農家が一斉歓迎した「陸羽132号」

大正8(1919)年、22歳の権次郎は、秋田の陸羽子場に赴任した。東北は稲作の北限にあり、単位面積当たりの収量は畿内の6割程度に過ぎず、冷夏となれば凶作に見舞われていた。秋田の陸羽子場はまさに米増産のフロンティアであった。

権次郎は、ここで前任者が交配を進めていた「陸羽132号というハイブリッド品種を数年かけて完成させた。冷害や稲熱病に強く、収量も多かった。当時の地元紙は次のように伝えている。

「陸羽132号」の植付が急速に発展したには何人も驚かざるを得ない。

 

聞く所によると同種は一昨年陸羽子場の発見に関わり、中稲の「亀の尾」と晩種の「愛国」とを配合し、稲は強健に収量も多くそれに栽培容易にして秋田の風土に堪ゆる点に於いて無比なりと称せられているから、農家の一斉歓迎したのも決して無理はない。
(同上)

大正15(1926)年頃、盛岡高等農林学校の卒業生である宮沢賢治は、岩手の地でまさに「雨ニモ負ケズ風ニモ負ケズ」と、農家指導に奔走していた。賢治は陸羽132号を極力勧め、多くの農家で2割方の増収を得て、喜ばれていた。ある詩では次のように陸羽132号を詠っている

陸羽132号のはうね あれはずゐぶん上手にいった 肥えも少しもむらがないし いかにも強く育っている

昭和6(1931)年からは東北地方は毎年のように深刻な冷害におそわれたが、「陸羽132号」が開発されていなかったら、凶作の被害は10倍近くにもなったろうと言われた。

戦後の食糧危機を救った「農林1号」

権次郎は「陸羽132号をさらに改良する作業を進めた。大正15(1926)年に新品種の第四世代まで育てたところで、岩手県農事試験場に転勤となったが、その後、新潟県農事試験場の並河成資・主任技師らがこれを引き継いで「水稲農林1号」として完成させた。

「陸羽132号」の成功がきっかけとなって、国立と各府県の農事試験場が全国的に連携し、そこから生まれた優秀な品種には統一的な「農林番号」をつけて各府県で奨励するという制度が生まれた。水稲としての第一号が「水稲農林1号」であった。

この「水稲農林1号」は、収量が多いだけでなく、収穫時期が早いために裏作も可能で、生産性を高めた。戦争直後の食料危機の際には、北陸、東北、関東地方で栽培された「水稲農林1号が早場米として都市部にどしどし送り込まれて窮乏に喘ぐ国民を救った

この「水稲農林1号」は味も良く、それまで「まずい」と言われていた越後米の汚名を一挙に返上した。そしておいしい越後米の元祖として、今日のコシヒカリやササニシキなどの子孫を生み出している。

「まるで当時の日本の農民のような小麦」

一方、岩手に移った権次郎は小麦の品種改良に取り組んでいた。当時の人口急増によって、小麦の消費量も急激に増加しつつあった。しかし国内の自給率は50%程度であり、食糧不足および小麦輸入による貿易収支悪化の危機が迫っていた。権次郎は、小麦の品種改良によって国内生産の大幅増加を実現し、この危機を乗り越えようとしたのである。

権次郎は助手一人とともに、日曜日もほとんど休むことなく、農事試験場で小麦の育成・観察・選別に取り組み、妻と子の三人で麦畑で昼食の弁当を食べることも度々だった。

こうした努力の末に昭和4(1929)年に完成したのが、「小麦農林1号」であった。権次郎はこれに満足することなく次々と新品種開発を続け、昭和10(1935)年には「農林10号」を完成させた。従来の小麦は人の肩ほども高さがあったが、「農林10号」はわずか50センチほどで、大きな穂をたくさんつけても倒れることがなかった。

権次郎は、後に「農林10号」について、こう語っている。

そう、まるで当時の日本の農民のような小麦だったな。

 

背が低くて、頑丈で、骨太っていうのかな。とにかく、いくら穂をつけても倒れないんだ、もともと雪の多い東北地方むけに品種改良したものでね。半年ちかく雪の下で育っても腐らない強い小麦をめざしたんだ。
(同上)

この間、昭和7年に政府が立てた「第二次小麦増殖5カ年計画」は着実に成果を上げ、当初の小麦輸入量400万石は、昭和11年には16万石に激減して、ほぼ国内産で自給できるようになった。農林1号から10号までの改良品種が、この増産に貢献した。

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