食糧危機から世界を救った日本人。稲塚権次郎「農林10号」の奇跡

 

華北農民のために

昭和13(1938)年、権次郎は北京の華北産業科学研究所に転任した。この研究所は外務省が義和団事件の賠償金の還元策として、広く華北の産業発展を目指したもので、とりあえず農業部を設置して、食糧増産および農民の福利増進のための試験研究を行った。日本人職員も東大、北大、九大などから人材を集め、326人にのぼっていた。

華北は洪水、日照り、イナゴの害など荒々しい自然環境の中で、農民が原始的な農業を営んでいた。権次郎はここでも小麦の品種改良に取り組み、在来種を収集し、そのうちの優良なものを純系にして9つの奨励品種を作り、それを増殖して、華北農民に配布していった。

やがて終戦となり、研究施設はすべて中国側に引き渡されることになった。金陵大学で小麦の育種をしていた沈宗瀚博士が接収に来た際に、こう言ったと伝えられている。

非常にいいものを作ってもらった。私も方々歩いたけれども、こんな立派な試験場は見たことがない。ほんとうにいいものをつくってもらった。あなた方が許すことなら長くここに残って、この仕事を継続してやってもらいたい。
(同上)

この言葉通り、権次郎は徴用されて、終戦後も2年間、研究所に残り、指導を続けた。帰国したのは昭和22年だった。

「小麦農林10号」アメリカに渡る

昭和20(1945)年12月、権次郎がまだ中国にいた頃、アメリカ人農学者S・C・サーモンが来日した。サーモン博士は占領軍の農業顧問として日本の農業事情の調査を行い、その過程で「小麦農林10号」の存在を知った。そして自ら岩手県立農事試験場に出向き、収穫前の「農林10号」を見た。

アメリカの小麦は通常15~20センチ間隔で植えられているのに、「小麦農林10号」は50センチも離して植えてあった。それでもたわわな実をつけているので、地面が見えないほどだった。さらに背丈がわずか60センチしかなく、倒れる事もなかった。

博士は「農林10号の種子をアメリカに持ち帰り1年間栽培して全米各州に配布した。それを受け取った一人がワシントン州の農業試験場に勤めるO・A・フォーゲル博士だった。フォーゲル博士は「農林10号」をアメリカの品種と交配して、新品種「ゲインズ」を作り出した。「ゲインズ」が農家に配布されると、各地で驚異的な出来高をあげた。

フォーゲル博士から種子を受け取った一人に、メキシコで小麦の品種改良に取り組んでいたボーローグ博士がいた。メキシコでは数年周期で小麦のサビ病が発生し、甚大な被害を受けていた。ボーローグ博士はサビ病に強く、収量も多い品種を開発していた。

しかし収量があがるにつれて、小麦が倒れるようになり、生産高の伸びに限界が生じてきた。ボーローグ博士は、母国アメリカでフォーゲル博士が背の低い品種を生み出している事を知り、少量の種子を送って貰った。それらをメキシコの品種と交配した新しい品種を作り出したところ、収量が2倍、3倍に伸びて、メキシコの農家は熱狂的に喜んでくれた

「緑の革命」

ボーローグ博士は国連農業機関の使節として、発展途上国の農業を視察し、農業研究者が不足していることを知った。そこで各国から研究者をメキシコに呼び寄せ訓練をした後に、「農林10号から改良した種子を持ち帰らせる制度を始めた。

1965(昭和40)年から翌年にかけてインドとパキスタンが小麦の大凶作に見舞われた。そこでボーローグ博士は両国に数万トン単位の種子を送り込んだ。これらが両国の土地で実を結び、インドでは小麦の収量が2倍となり、パキスタンでも自給自足が可能なレベルに達した。

冒頭に紹介した平成2年の富山県での講演の中で、ボーローグ博士は「農林10号の遺伝子を受け継いだ品種は500以上生み出され、世界の小麦の3割を占めるに至ったと述べている。

1960年代は、貧しい国の食料増加率が人口増加率の半分にも満たなかったことから、未曾有の食糧危機が予測されていた。しかし「農林10号の子孫たちが、2倍、3倍の小麦を生み出して、食糧危機を回避したのである。これは「グリーン・レボリューション緑の革命)」と呼ばれ、その功労者としてボーローグ博士は1970(昭和45)年にノーベル平和賞を受賞した。

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