借金地獄から三つ星シェフ御用達へ。九州の老舗は何に救われたのか?

 

有田焼の窯元 カマチ陶舗

有田焼は佐賀県有田町を中心に焼かれる磁器」で江戸時代には伊万里焼や肥前焼とも呼ばれていました。17世紀初頭豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、肥前の領主鍋島直茂に同行してきた朝鮮人陶工李参平が有田町の泉山で磁器の原料となる陶石を発見されたことが始まりです。

1650年代には、オランダの東インド会社により東南アジアやヨーロッパに輸出され、当時のヨーロッパの王侯貴族の間でIMARI」と呼ばれステータスシンボルとして珍重され、現在でも高く評価されています。

カマチ陶舗は、明治の初めに有田泉山で起こした小さな窯「照右ェ門窯」に始まります。昭和28年に会社として創立し、1990年代後半頃までは日本料理店をはじめとする顧客のオーダーメイドで「和食器」をつくっていました。しかし、バブル崩壊時になるとライフスタイルの変化や高級食器の需要の低下で売り上げは大きく落ち込んでしまいました

そんな中で、先代社長の死去により代替わりするのですが、そこにあったのは数億円の借金であり、いきなりの窮地に立たされることになります。目をつけたのは「フレンチ」や「イタリアン」の「洋食器」です。周りからは、伝統を壊すのかと大反対のなかでの発想転換です。しかし、事はそんなに都合よくはすすむはずはありませんでした。飛び込みで高級レストランやホテルに売り込みをかけるものの、全く相手にされず成果の上げようもありませんでした。

目線を変えて取り組んだのは「本場フランスへのダイレクトな提案」でした。その経緯は面白く、本場フランスで名を馳せるシェフ、ドミニク・ブシェ氏にブランド・コラボレートしたいと持ちかけたのですが、全く取り合ってもらえず、そこで実物である皿を見せたところ大いに気に入れられて道が開けて行くことになりました。

その皿というのも、どんな無理な注文でもこなすことのできる兄が失敗作として世に送り出してしまった「ふちの折れ下がった斬新なデザイン」のものであったというオマケまでついています。この思わぬ怪我の功名の創作物が、2000年初頭にドミニク・ブシェ氏によって採用され離陸に成功しました。

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