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夢を諦めない。自腹でロケットを作った零細企業社長の奮闘記

「宇宙開発」と聞くと、どうしてもNASAのような大きな機関をイメージしてしまいますが、北海道の富良野にある、従業員20名ほどの企業でも「ロケット開発」が行われていることをご存知でしょうか。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、北の大地でロケット開発に取り組む「植松電機」にスポットをあて、「夢を持つことの大切さ」について考察しています。

植松努~自前で挑む宇宙開発

北海道の富良野と言えば、美しいお花畑が連想されるが、その近くの工業団地で、社員20名ほどの小企業が自前でロケットの開発に取り組んでいる、と聞けば、「何を好きこのんで」と思うのが、普通だろう。

その企業、植松電機でリーダー役をしている植松努専務(昭和41年生まれ)は、ロケット開発の目的を「『どうせ無理という言葉をこの世からなくすため」と語っている。

北海道の片田舎の20人の極小企業でもロケット開発ができると実証すれば、都会にある、もっと大きな企業だったら、もっと何でもできる、と考えるだろう、というのである。

突拍子もない発想ですぐにはついていけないが、植松さんの身の上話を聞くと、なるほどな、と腑に落ちる。そして宇宙開発への挑戦ぶりを知れば、これこそ現代日本の閉塞状況を打ち破る発想ではないか、と思えてくる。

5年ほどでロケット打ち上げにこぎ着けた

植松電機の本業は、パワーショベルの先端につけて、産業廃棄物から鉄を取り出すマグネットの製造、販売である。競合製品が存在しないので、ほぼ100%のシェアを持っている、という。そして、そこから得た利益を、ロケット開発につぎ込んでいる

平成16(2004)年、独自の方式でロケットを開発している北海道大学大学院の永田晴紀教授と出会った。翌年、永田教授を全面支援する形で、共同研究を開始。

平成19(2007)年には全長5mのロケットを打ち上げ、高度3,500mに到達。翌年には1年で18機も打ち上げた。今まで約5億円を使ったが、すべて植松電機の自腹で国からの補助金はいっさい貰っていない

永田教授の開発しているロケットの長所は、固体のポリエチレンを使うので、液体燃料よりもはるかに安全で、装置も簡単なこと。小型で安価なロケットを作れるので、電子化されてどんどん小型になりつつある人工衛星を効率よく打ち上げることができる

そんな夢が実現するのは、まだまだ先のことだろう。しかし、それでも植松さんは挑戦している。「どうせ無理」という言葉をこの世からなくすために。

「お前もきっと月に行けるぞ」

植松さんが、なぜ、それほどに「どうせ無理」という言葉をこの世からなくしたいと思っているのか。それを理解するには、植松さんの生い立ちを辿る必要がある。

植松さんは3歳の頃、お祖父さんに大切にされた。

僕はじいちゃんが大好きでした。じいちゃんは落ち着きが足りない、変な子どもだった僕を大切にしてくれたんです。そして、僕にアポロの着陸を見せてくれました。僕が3歳のときです。

 

僕はアポロの着陸そのものを覚えてはいません。僕が覚えているのはじいちゃんのあぐらの中の温もりです。じいちゃんのあぐらの中に座った僕にテレビを見せながら、「人が月を歩いているぞ。すごい時代になったぞ。お前もきっと月に行けるぞ」とじいちゃんは言っていました。

 

自分が大好きだったじいちゃんの、今まで見たこともない喜びぶりが僕の中に記憶されました。だから、僕は飛行機やロケットが好きになったんです。飛行機の本を手にとり、飛行機の名前を覚えたらじいちゃんが喜んだ、ただそれだけで、僕は飛行機やロケットが大好きになったんです。
(『NASAより宇宙に近い町工場』植松努 著/ディスカヴァー・トゥエンティワン)

3歳の子どもでも、大好きな人が喜んでくれることをしようとする。それがきっかけだった。

「どうせ無理」

小学生の頃は、テレビで『海底少年マリン』や『海のトリトン』を見て、潜水艦や海の中が大好きになった。美しい海の中を行く潜水艦に憧れを持った

そこで6年生の時に、「ぼくの夢、わたしの夢」と題された卒業文集の中で「自分のつくった潜水艦で世界の海を旅したい」と書いたら、先生に呼び出しを食らった。「他の子どもはちゃんと職業のことを書いているのに、おまえはこんなものでいいのか? こんな、できもしない、かなわない夢を書いていていいのか?」と言われた。

「ぼくの夢、わたしの夢」のコーナーに自分の夢を書いて、なぜ怒られなければいけないんだろうと、思ったという。これが「どうせ無理」という言葉で痛い目にあった最初の経験だった。

中学校の進路相談の時間に、先生から「おまえは将来どうするんだ?」と聞かれたので、「飛行機ロケットの仕事がしたいです」と胸を張って答えたら、「芦別に生まれた段階で無理だ」と言われた。その先生は、こう言った。

飛行機やロケットの仕事をするためには東大に入らなければいけない。おまえの頭では入れるわけがない。芦別という町から東大に行った人間は一人もいない。そんなバカなことを考えている暇があったら、芦別高校に行くのか、芦別工業高校に行くのかをよく考えて選べ。
(同上)

「ライト兄弟は東大に行ってない」

植松さんは、飛行機やロケットの仕事をするためには、本当に東大へいかなきゃ駄目なのかな、と考えた。しかし、考えてみたら、飛行機を発明したライト兄弟は東大に行ってない。だから、関係ないやと思って、自分で飛行機の勉強をしようと思った

飛行機に関する外国の文献を辞書を引き引き読んだ。航空用語はたくさん覚えたが、そういう単語は中学や高校の試験には全然出てこない。航空工学で使われる数学も自分なりに勉強したが、それも試験には出てこない。だから、試験では赤点ばかりだった

大学受験をしようと思ったら、高校の進路指導の先生は、おまえには絶対無理だと言われた。しかし、奇跡的に北見工業大学に受かった。そうしたら、そこで学ぶ航空力学や流体力学は、自分なりに勉強したこと、そのものだった。中学高校では赤点王だったのに、大学に行ったら勉強しなくともほとんど100点がとれるようになっていた

それでも先生方は「おまえはこの大学に来た段階で、残念だけど飛行機の仕事は無理だ」と言う。「えっ、うそ!」と思った。先生方は、ここは国立の工業系大学で偏差値が一番低いから、無理だという。同級生たちは、もっといい工業大学を受けたのに落ちたので、やむなくこの大学に来た人が大半で、「俺の人生はもう終わった」などとみんな言っている。

それでも植松さんは飛行機の勉強を続けた。周りがもうダメだと言ったからといって自分もダメだとは限らない、と思って。

飛行機の設計をしながら飛行機が好きではない人たち

「どうせ無理」と言われながらも、あきらめずにやってきた植松さんは、ついに名古屋で飛行機をつくる会社に就職した。かつて世界一のゼロ戦を開発したた会社である。

植松さんはそこで様々な航空機の開発に関わることができた。しかし、子どもの頃からの夢をせっかく実現できたのに、わずか5年半で辞めてしまう。

なぜなら、その職場に飛行機が好きではない人たちが急増してきたからです。

 

飛行機の設計の仕事をしているにもかかわらず、彼らは飛行機の雑誌を読もうともしませんでした。彼らは飛行場に行ってもわくわくしないんです。そして、ただ言われたことを言われた通りにやるだけでした。…

 

好きという心がなければ、よりよくすることはできません。だから、指示をされないと何もできなくなるんです。…

 

彼らが悪いのではなくて、彼らから好きという心を奪ってしまった仕組みに問題があります。

彼らも植松さんのように、子どもの頃には「自分のつくった潜水艦で世界の海を旅したい」というような夢を持っていたはずだ。しかし、「こんな、できもしない、かなわない夢を書いていていいのか?」と言う声に従って、一流校をめざして、勉強に励んできたのだろう。

その結果、一流企業に勤めることができたが、その時には、すでに幼い頃の夢は枯れてしまっている。自分自身の夢を持たない人たちは、指示待ち族にならざるを得ない。

「えーっ、宇宙開発なんか、やったことないからできません」

「今度、ロケット作ることにした」と植松さんは、従業員たちに言った。故郷で父親がやっていた植松電機に入り、パワーショベルにつけるマグネットを開発して、売上を伸ばした後である。

皆は「えーっ、宇宙開発なんか、やったことないからできません」という反応だった。これも「どうせ無理」という声である。

そこで植松さんは一人でロケットエンジンを作り始めた。それがやっと動いて、美しい炎と轟音を発した時、彼らは「わっ、ロケットエンジンってつくれるんだ」と知った。自分たちにもできるかもしれない、と取り組み始めたら、たった半年でロケットを作れるようになった

現在、20人ほどいる従業員のほとんどは大学を出ていない。もとはアメ屋や焼き肉屋でバイトをしていた若者たちだ。そういう人たちが本業の傍らで、今や一生懸命に宇宙開発をしている。最近は国の研究機関の人たちも大勢訪ねてくるが、そういう超エリートたちとも、平然と会議をしている。

また社員たちは分からないことにも挑戦する姿勢を身につけたので、近所の農家の人と一緒に、農業の機械の開発を勝手に始めたりしている。

人間、夢を持てばそれに向かって自然に努力をしてしまう。そして、自分の持つ可能性を押し広げていく。学歴がないから、頭が悪いから、中小企業だから「どうせ無理」という言葉が、その可能性を殺してしまっていたのである。

逆に、成績を良くして一流企業さえに入れば、という形で、子どもの頃の夢や憧れをつぶしてしまう事が、飛行機の設計をしながら、飛行場に行ってもわくわくしない指示待ち族を作り出す。

「植松電機に行ってから、何でもできるようになりました」

植松さんは、子どもたちのためにロケット教室を開いている。わずかな火薬で、高度100mまで飛んでいく。点火は電線を接続して、子供たちが自分の手で制御装置を操作して飛ばす。

海外製の教材なので説明書は英語だが、植松さんはロケットの作り方を詳しく説明したりはしない。失敗しそうになったときだけ助け船を出す。それでも子どもたちは、自分が作ったロケットがものすごい勢いで飛ぶんだよ、と教えられると、英語の説明書をなんとか読み解いて、作ってしまう。

他の子のロケットが飛んでいくのを見て、不安に負けて「どうせ僕のはダメだろう」などと、つぶやく子もいるが、その子のロケットが飛び出して、パラシュートを開いて戻ってくると、「どうせ無理」というあきらめを克服することができる。

ある幼稚園の子どもが、ただたどしい字で「植松電機に行ってから何でもできるようになりました」と感想文を書いてくれた事が、植松さんは嬉しくてたまらなかったという。幼稚園児の「何でも」だから、たかが知れているだろうが、何でもあきらめずにやってみよう、という気持ちで、周囲のいろいろな事にチャレンジしているのだろう。

こうして自信を持った子供たちは自然に周囲の友達にも優しくなる、という。自分に自信のある人は、他人に対して「どうせ無理」などという冷たい言葉は吐かない。

国家の総力は、そこに暮らす人々の未来の可能性の総和

今までの我が国では、一流企業、一流官庁に入るために「一流校にさえ行けば」と子どもたちを叱咤してきた。その過程で子供らしい夢や憧れを、「そんな事でいいのか」と押し潰してきた。

逆に、進学から落ちこぼれた子どもたちの夢は、成績が悪ければ、「どうせ無理」という言葉で、これまた押し潰してきた。

その結果、我が国は経済大国にはなったが、夢を失った国民からは新しい芸術も思想も産業も出てこない。それが現在の我が国が閉塞感に覆われている原因ではないか。

国家の総力は、そこに暮らしている人たちの能力の総和でしかありません。しかも能力の総和というのは過去の業績の総和ではなく、未来の可能性の総和です。

 

本当の国家の総力というものは、そこに暮らす人たちの優しさと憧れの総和のはずです。だから、優しさと憧れを奪ってはならないんです。
(同上)

たった20人の会社が宇宙開発に挑戦している。もっと大きな会社は、もっと大きな、様々な夢を目指していけるはずだ。そうした夢に向けた努力が我が国の未来の可能性を押し広げていく

文責:伊勢雅臣

image by: 植松努 Facebook

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購読者数4万3,000人、創刊18年のメールマガジン『Japan On the Globe 国際派日本人養成講座』発行者。国際社会で日本を背負って活躍できる人材の育成を目指す。

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【著者】 伊勢雅臣 【発行周期】 週刊

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