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昔はカタカナの方が使われてた。ひらがなと使用頻度が逆転した訳

普段、私たちが当たり前の様に使っている、ひらがな。実は公的にひらがなが認められるようになったのは、ここ50年ほどのことだということはご存知でしょうか? それ以前は、漢字とカタカナで文章を書くことが主流だったのだそうです。無料メルマガ『古代史探求レポート』は、「ひらがながカタカナに取って代わった」と語り、なぜカタカナとひらがなの立ち位置が変わってしまったのか、それぞれのルーツを明かしつつ面白い考察を紹介しています。

ひらがなに負けたカタカナ

私達は小学生の時に、ひらがなを習い、カタカナを習い、漢字を習います。新聞を読んでも、本を買っても、ほとんどが漢字とひらがなで記述されています。しかし、こうなったのは、第二次世界大戦が終わった3年後からで、それまではカタカナがひらがなよりも重んじられていました。公文書も、漢字とカタカナで記載されていました。大日本帝国憲法も、漢字とカタカナで記載されています。

つまり、私達が当然と思っている「ひらがな」が公的に認められるようになってから、まだ50年間ぐらいしか経っていないのです。

にもかかわらず、私達にはカタカナで文章を書くということが想像できません。教育とはいかに恐ろしいものであるかがよくわかるのです。今は、英語を小学校から教えるようになっていますので、そのうち、英語混じりの文章というのが一般的になるのかもしれません。昔は、ひらがなを使って文章を書いていたんだという時代がやってくるのかもしれません。

カタカナ、ひらがなが表音文字であるのに対し、漢字は表意文字です。漢字は一文字で一つの言葉を表しますから、画数は多いものの非常に合理的であることも確かです。

一方、ひらがなやカタカナは表音文字です。それも、日本語しか表せない表音文字です。韓国語のハングルもまた表音文字ですが、ひらがなよりは多くの音を表すことができます。中国語を学ぶときは、その音をピンインで表現します。ピンインを表すにはラテン文字が使われます。ラテン文字の組み合わせが、最も多くの音を表せることも確かなのです。そう考えていくと、ひらがな、カタカナが日本を飛び越えて世界文字になることは残念ながらあり得ないのです。

日本は、中国文化圏の国です。いわゆる、漢字を使うアジアの国の一つです。漢字は、お隣の韓国や北朝鮮だけでなく、モンゴルもベトナムも、シンガポールもマレーシアも漢字を使います。モンゴルやベトナムは、北朝鮮もなのかもしれませんが、最近はもう漢字を使わなくなっているのかもしれません。韓国はまた漢字を使うように変わって来ました。

漢字の難点は覚えるのが大変であるということにつきます。日本では約5万字が使われ、中国ではその4倍の20万字が使われています。普通の人が使う漢字が約3000字です。皆さんは、漢字をいくつ知っていますかという質問をされた場合、何文字と答えられますか?少なくとも1000文字は知っていますと胸を張って言い切れる方も今は少ないのかもしれません。

日本が非常に独特なのは、表音文字にカタカナとひらがなという2つの文字を使うようになったことです。はっきり言って、必要ないことです。同じ音を表すのに2種類もの文字を使うのは大変なだけです。名前のフリガナも、昔はフリガナでしたが、最近はふりがなになりました。最近は、カタカナの築いた世界をひらがなが取って代わろうとしているのです。

歴史を振り返ると、 日本では、まず、漢字を意味でなく音で使うという独自の使い方をした万葉仮名が確立されます。万葉集は代表的なものですが、古事記も万葉仮名で記載されました。万葉集にしかり、古事記にしかり、当時の文化は全て中国からやってきたものの中で、文字を持たなかった日本が、なんとかして日本の文化をありのまま書き留めたいとする意気込みのようなものを強く感じるのです。

特に太安万侶(おおのやすまろ)は古事記の序文に次のように書いています。「全てを文字の意味によって漢語で書き表したとしたら、古語が持っている心を表すことができない。かと言って全ての発音をそのまま万葉仮名で書いたとしたら、いたずらに文章が長くなってしまう。」と記載されており、苦心の上に漢字と万葉仮名の混合によって文書を書き上げたことが書き残されています。

「古語の持っている心」本当に素敵な表現だと思います。中国から入ってくる言葉だけでなく、昔から日本で使われている言葉。その言葉の持つ日本独特の成り立ちや、使われ方を漢字で表現することはできないと言っているのです。本当にその通りだと思います。太安万侶が苦心して書き残した言葉は、大切に語りつながなくてはいけないものだと思うのです。

万葉仮名での表記でも同じであったと思いますが、一番大きな課題は、その当時使われていた日本語の音を整理することであったと思います。音韻体系というのが良いのでしょうか。今私たちは、あいうえおの五十音が頭に入っており、この五十の音を使って言葉を作り、文字で表します。しかし、当時の人々は、様々な音で言葉を話していたはずです。唇を噛んだり、鼻に抜けたり、喉の奥で発したりして多くの音を持っていたはずなのです。これを一体誰が、どのようにして整理したかは、全くわかっていないのです。

例えば、日本語の「あ」音として使われた万葉仮名の漢字は「阿」「安」「英」「足」の4つの文字が使われています。これは、「あ」にも様々な音があったことを意味しています。特に、甲類と乙類という2種類に分けられていた「い」「え」「お」の3つの母音には、非常に多くの漢字が当てはめられました。

万葉仮名を今の五十音に当てはめて整理し直すと、面白いことがわかります。例えば、「は」行に当たる音の漢字を調べると、全て「は」行の発音ではなく「ぱ」行の発音になります。つまり、古代万葉仮名を使っている時代には、日本には「は」行はなく、それらは全て「ぱ」行の音で発音されていたことがわかるのです。母は、「はは」ではなく「パパ」であったということがわかるのです。

言葉の発音は時代とともに大きく変わってしまったようです。今、私たちが当時の日本に降り立つことができても、その発音を聞いて意味を理解できることはなかったのではないかと思います。その意味では、漢語で表現されたからこそ、現代でも意味を理解することができるのだとも言えるのです。

私は、この万葉仮名に当てはまる漢字を日本語の音に当てはめて分類したのは、日本人ではなかったのではないかと思うのです。おそらく、まずは中国に漢字音の分類が存在していて、その分類のどれに当てはまるのかを、日本人の話す言葉を聞いた中国人が一時づつ漢字に当てはめて、日本語のための音韻表を該当漢字を使って当てはめて作ったものが万葉仮名になったのではないかと思うのです。

当時の中国は、まさしく世界の中心の大国でした。世界中から、人々が集い日本と同じように朝貢していたのではないかと思います。それらの言葉を理解するには、彼らが話す音を書き留めていくことが必要だったと思います。そのための音韻表のようなものが中国では作られていたのではないでしょうか。日本語に対しては、中国から渡来した人が日本で作業したのか、はたまた、日本の留学生を材料に中国で作成されたかわかりませんが、日本人ができる芸当ではないと思います。

万葉仮名とは中国人がくれた日本へのプレゼントであったように思います。しかし、日本人はそれを元に整理、洗練していったのではないでしょうか。それが五十音にまとめられたのは江戸時代になってからのようです。わ行の「ゐ(い)」と「ゑ(え)」のようにごく最近まで残った音も存在しました。

皆さんもご存知の通り、ひらがなが、あいうえおの順番で表されるようになったのは、最近のことです。それまでは、「いろはにほへと」の順に並んで覚えられていました。つまり、ひらがなは音韻で整理された文字ではなかったのです。五十音のように、まずは母音の「あいうえお」から始まって整理されて使われたのは、カタカナだったのです。

ひらがなは、ご存知の通り平安時代の女性文字として作られ発展しました。漢字をできるだけ早く書こうとすると、省略した字になって行きます。昔から、鉛筆が存在していれば、字の形ももっと角張ったものに対応できたのでしょうが、筆と墨で漢字を早く描くには草書体になって行かざるを得ません。それを突き詰めていくと、ひらがなに形を変えていくのです。

今、中国では簡体字が使われていますが、日本では平安時代に既に独自の簡体字に手をつけていたのです。それが「ひらがな」として完成しました。優美な流れを生む文字が女性文字として好まれ活用され、その文字を用いた物語の世界が作られ、女流文学まで押し上げることで一気に地位を確立したのです。

しかし、あまりにも女性文字としての印象と発展が強かったために、逆に男性は使うことを躊躇するようになりました。この辺りは、言葉や服装と同じであると思います。男性がスカートを履かないのは、禁止されているわけではなく、あまりにも女性の服装としての固定観念が強いためだと思います。紀貫之は女性になりすまして、ひらがなで土佐日記を書きました。

一方の男性はというと、カタカナを使ったのではなく、やはり漢字を使いました。元々は漢文で表記し、その漢文で表記したものを日本語として読むために返り点や、「ヲ」や「コト」と書き込んで、文章を読みやすくするのに使われたのが最初のようです。その後、漢字の音を表すのに用いられたようです。現在残る最古のカタカナ文書は、東大寺に残されている成実論(じょうじつろん)だそうです。この作成年月が、天長五年ですから828年です。ひらがな同様、カタカナも平安時代に生まれて定着したようです。

カタカナを五十音表として整理したのは、天台宗の僧で最澄の親族であったと言われている安然(あんねん)だと言われています。800年代中頃から、900年代にかけて生きた人ですから、五十音表が完成したのは800年代後半のことだったのかもしれません。それ以降、音を表す表記方法としてカタカナが確立したのではないでしょうか。カタカナは、やはり仏教とは切っても切れない関係にあったようです。経を日本で理解するためにはカタカナは欠かせなかったのだと思います。

平安時代には、すでに片仮名の手本書があったとの記録もありますから、文字ができあがったのはもっと前の話になります。「倭片仮字反切義解」という室町時代に書かれたカタカナの説明書には、「天平勝宝年中に到りて右丞相吉備真備公、我が邦に通用する所の仮字四十五字を取り、偏旁点画を省きて片仮字(片仮名)を作る」と記載されています。

留学生吉備真備が作ったというのは非常に興味深く可能性がありそうに思いますが、少なくとも、彼の時代には万葉仮名に取って代わることはなかったのが事実です。着想があったのかもしれませんが、文字まで作られていたかどうかは疑わしいと思います。

こう見てくると、ひらがなと、カタカナはどうやら同じ頃に出来上がったようです。「あ」は「安」の字が簡略化されたものであったのに対し、「ア」は「阿」のこざとへんを取り上げたものです。「安」も「阿」も万葉仮名として「あ」の音に当てはめられていましたが、違う音文字を用いているのです。

「あ」のように違う漢字を元にしている場合もあれば、「う」と「ウ」のように、どちらも「宇」から作られたように、同じ文字を元にしているものも多く存在します。50音中30音が同じ漢字から作られているのです。もしかすると、男女で競って、方やカタカナ、方やひらがなを作り上げたのかもしれません。

女流文学として「ひらがな」が広まったのに対し、カタカナは実務の中で必要とされて行ったようです。現存する古文書の中で、カタカナのみで表記された文章が多いのが、神様に誓いを立てるときの起請文(きしょうもん)や、神様に願い事をする願文、それに神様の声を聞き取った託宣文です。公文書を全てカタカナで書くというのは少なかったようですが、裁判において証言を記録する宣命書(せんみょうがき)にはカタカナが多く見られます。

これらは、何かと言うと口語を記録したものです。つまり、漢字ではどのように話したのかを、記録しきれなかったことがカタカナの需要につながったようです。ひらがなが、男女の恋文のやりとりで広まったのとは対照的です。

「了解」と書くと、理解した上で同意したということになりますが、「よく、わかりましてございます。」と言ったのか、「わかったって言ってんだろ」と言ったのかの表現できません。「あなた方がおっしゃったこと」というのと、「おめーらが言ったこと」というのは同じことを言っていますが、受ける印象は大いに違います。

こういう口語を記録しておくには、カタカナかひらがなを使うしかなかったのですが、公的に記録される時には、ひらがなではなく、カタカナが使われたのです。これは、書き文字として広まったかどうか以前に、ひらがなが、あくまで女性文字として認識されたためのことだったと思われます。

現代においては、海外からの言葉は全てカタカナで表記されるようになり、自ずと住み分けが進みました。今では、カタカナは外来語だけに使われ、ひらがなが普通の日本語として用いられるようになりました。ひらがなが、より日本らしい美しさを持つと判断されたせいなのかもしれません。

私は、紫式部や清少納言の実績が大きく影響していると思っているのです。また、日本人の気質として、鋭利な形より、丸みを帯びた形を好む民族であることが根底にあるのかもしれません。

image by: Shutterstock

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