国権か民権か。衆院総選挙前に改めて考える「リベラル」の定義

 

欧州に学ぶ補完性の原理

とはいえ、リベラルとか民権とかは、単なる掛け声ではない。「下からの社会編成」というのは20世紀の欧州から始まって21世紀に引き継ぐべき、ある意味では最大のテーマである。そのことを筋道立てて論じたのは、民主党が政権を奪取する直前に出た『VOICE』09年9月号の鳩山由紀夫論文「私の政治哲学」で、次のように言っている。

私が最も力を入れたい政策は「中央集権国家である現在の国のかたちを『地域主権の国』に変革」することだと言った。同様の主張は13年前の旧民主党結党宣言にも書いた。「小さな中央政府・国会と、大きな権限をもった効率的な地方政府による『地方分権・地域主権国家』」を実現し、「そのもとで、市民参加・地域共助型の充実した福祉と、将来にツケを回さない財政・医療・年金制度を両立させていく」と。

グローバル化とローカル化という二つの背反する時代の要請への回答として、EUはマーストリヒト条約やヨーロッパ地方自治憲章において「補完性の原理」を掲げた。補完性の原理は、今日では、単に基礎自治体優先の原則というだけでなく、国家と超国家機関との関係にまで援用される原則となっている。こうした視点から、補完性の原理を解釈すると以下のようになる。

個人でできることは、個人で解決する。個人で解決できないことは、家庭で、家庭で解決できないことは、地域社会やNPOが助ける。これらのレベルで解決できないときに初めて行政がかかわることになる。そして基礎自治体で処理できることは、すべて基礎自治体でやる。基礎自治体ができないことだけを広域自治体がやる。広域自治体でもできないこと、たとえば外交、防衛、マクロ経済政策の決定など、を中央政府が担当する。そして次の段階として、通貨の発行権など国家主権の一部も、EUのような国際機構に移譲する。

補完性の原理は、実際の分権政策としては、基礎自治体重視の分権政策ということになる。われわれが友愛の現代化を模索するとき、必然的に補完性の原理に立脚した「地域主権国家」の確立に行き届く……。

下からの民主主義という意味には、こういう欧州統合の中で培われてきた社会編成原理の提唱までが含まれていて、しかもそれは単に最近の輸入ものなのではなくて、明治初年にすでに世界最先端の思想として精彩を放っていたから繋がる日本独自の受容と対立と熟成の歴史を持っているのだということが重要である。

そういう訳なので、枝野氏が「下から」という言葉を吐く時に、どこまでそれだけの自覚があるのかないのかは分からないけれども、そのたった一言に、実は日本近代政治史150年が凝縮されているのである。

※ 編集部によりメルマガのオリジナル記事を一部中略しました。

image by: Wikimedia Commons

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早稲田大学文学部卒。通信社、広告会社勤務の後、1975年からフリー・ジャーナリストに。現在は半農半ジャーナリストとしてとして活動中。メルマガを読めば日本の置かれている立場が一目瞭然、今なすべきことが見えてくる。

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